人生の書 - 考える力(5) ジェームズ・アレン

この真実の証明はすべての人のうちにあり、従って、系統だった内省と自己分析で容易に調べられる。人が考え方を大きく変えると、自分の人生における物質的条件に影響が出て急速に変容していくことに驚くことだろう。人は自分の内心を秘密にできると思っているが、それは無理だ。人の考えは習慣という形で結晶化し、その習慣が自分を取り巻く状況となっていくのである。堕落した考えは酩酊や好色という習慣として結晶化し、それは貧困や疾病という外的状況になっていく。種類の如何を問わず、不純な考えは無気力や混乱した習慣として結晶化し、散漫で不運な外的状況につながっていく。不安や疑念、優柔不断といった考えは、弱くて臆病で決断力がないという習慣として結晶化し、失敗や極貧、奴隷的依存関係という外的状況につながっていく。怠惰な思考は不潔で不誠実な習慣として結晶化し、悪辣で極貧状態という外的状況につながる。憎しみに満ちて人を非難するような思考は告発と暴力という習慣として結晶化し、それは傷害や虐待という外的状況になっていく。種類の如何を問わず、自己中心的な考えは自分探しの習慣として結晶化し、それは多かれ少なかれ苦悩という外的状況につながる。一方、種類の如何を問わず、美しい考えは優美で温和な習慣に結晶化し、穏やかで明朗な外的状況につながる。純粋な考えは節度と自己管理という習慣に結晶化し、それは平穏や平和という外的状況になっていく。勇気、自律、決断力に満ちた考えは勇気ある習慣として結晶化し、成功や豊かさ、自由といった外的状況につながっていく。エネルギッシュな考えは潔癖で勤勉という習慣に結晶化し、快活な外的状況につながっていく。寛大で寛容な考えは穏やかな習慣として結晶化し、それは保護し腐敗を防止する外的状況へとつながっていく。愛情に満ちた利他的な考えは他人に対する無私無欲の習慣として結晶化し、確実かつ永続的な繁栄と真の豊かさという外的状況へとつながっていく。

良かれ悪しかれ、自分の内部に存続している一定の思考の連鎖は、その結果として、その人の性格や外的状況となって生じざるをえない。人は自分の外的状況を直接に選択することはできないが、自分の考えを選ぶことで間接的に自分を取り巻く外的状況を確実に作りあげることはできる。

自然は、人が自発的に取り入れようとしている考え方を満足させようとし、良い考えも悪い考えもいち早く表面に出てくるような機会を与えてくれる。

罪深い考えを放棄すれば、その人に対する世界はすべて優しくなり助けようとしてくれる。自分の弱くよこしまな考えを押さえこめれば、その強い意志を助けてくれる機会がいたるところに出現するだろう。よい考えを持つよう心がければ、困難な運命がその人を不幸や恥ずかしい思いに縛りつけるようなことはなくなっていく。世界はその人を映し出す万華鏡であり、成功したあらゆる瞬間にその人に示される、絶えず変化する色彩の組み合わせは、その人の不断の思考をこの上なく見事に調整した絵画なのである。
君は自分がなると思っているものになるだろう
失敗したのであれば、何が誤っていたかを見つけよう
「環境」という惨めな言葉
とはいえ、精神はそれを冷笑できるし、それから自由になれる

環境は、時間を使いこなし、空間を征服する
偶然という名の、自慢たらたらのペテン師
暴君のような外的状況に命じて
王冠を奪い、召使いの立場におとしめる

人間の意思は、見えないものを押し進め
不死の魂の成果として
目標に至る道を切り開くことができる
花崗岩の壁を貫いて

遅れてもいらだたず
理解している人のように待つことだ
精神が立ち上がり命じるとき
神々はそれに従う用意ができている

人生の書 - 考える力(4) ジェームズ・アレン

考える力(4)

とはいえ、自分を取り巻く状況は非常に複雑で、思考はとても深いところまで根を張り、幸福の条件は人によって大きく異なってもいるため、その人の魂全体については(本人にはわかっていたとしても)その人の人生の外的態様だけでは他者には判断できない。ある方向では正直であるのに貧困に苦しんでいる人がいる一方で、ある方向では不正直であるのに裕福な人がいるかもしれない。とはいえ、よくあるように、そこから、正直だから失敗し不正直だから成功したという結論を導きだして判断するのは皮相的にすぎる。というのも、そういうとらえ方自体が不正直イコール腐敗、正直イコール善という仮定に基づいているためである。より深い知識と幅広い経験という視点から見れば、そのような判断は誤りだとわかる。不正直な人にも他者にはない立派な長所があるかもしれないし、正直な人であっても他者にはない悪いところがあるかもしれない。正直な人は自分の正直な考え方のもたらす結果を刈りとって行動するし、不正直な人も同様に自分自身にとっての苦しみと幸福を得るのだ。

自分は自分の美徳のために苦しんでいると思いこむのは虚栄心を満足させてくれるが、人は自分の精神から不快な、苦い、不純な考えすべてを根絶し、自分の魂から罪深い汚点すべてを洗い流してはじめて、自分の苦しみは自分の悪癖ではなく自分における善の結果であり、最高の完全性が自分の精神と生活の中で機能していること、つまり、絶対的に正しく、悪に対するに善をもってし、善に対するに悪をもってする偉大な法則というものを発見し、自分はまだそこにはとても到達していないが、その途上にあると宣言できるようになるのだ。そのことをわかった上で自分の過去の無知と盲目とを振り返ってみて、自分の人生が現在においても過去においても常に正しく命じられたものであり、善も悪も含めて自分の過去の体験はすべて、進化しているもののまだ発展途上にあることを示していると知るに至るわけだ。

よい思考と行動が悪い結果を生じさせることはない。悪い思考と行動がよい結果を生じさせるということもない。つまり、トウモロコシからはトウモロコシ以外の何かが生じることはないし、イラクサからはイラクサ以外の何も生まれない。人は自然界においてはこの法則を理解している(この作用は単純で例外がない)が、精神や倫理の世界でそれを納得している者はほとんどいないし、従って受け入れるようともしない。

苦しみは常にある方向における誤った思考の結果である。個人は自分自身と調和し、自分という存在の法則に従っている。無益で不純なものすべてを浄化し焼きつくすことが、苦しみを最大限に活用する唯一の道である。浄化すれば苦しみは消えていく。不純物を取り去った後で金を燃やそうとしても無駄なように。完璧なまでに浄化された賢明な存在には苦しみ自体がないのだ。

人が苦しみと遭遇する外的状況は、その人が自身の精神と調和していない結果である。人が祝福される外的状況は、その人が自身の精神と調和している結果である。物質的富ではない祝福は、正しい思考で得られる。物質的富が不足しているわけではない不幸は、悪い思考から来る。呪われているのに金持ちの人がいるかもしれない。祝福されているのに貧しい人がいるかもしれない。祝福と物質的富は、富が正しく賢明に用いられたときに結びつくだけである。貧者が自分の運命について主に不当に課せられたとみなしている限り、不幸になるだけだ。

貧困と放縦は不幸の両極端である。どちらも同じように不自然で、乱れた精神の結果である。人は、幸福で健康で豊かな存在になるまでは、正しい状況にないとも言える。幸福、健康、豊かさは、自分の精神と外的状況とがうまく調和している結果である。

人は泣き言を言ったり悪態をついたりするのをやめ、自分の人生を制御している隠された正義を探し求めるようになったときにのみ、人として存在するようになる。その制御している要素に自分の精神を適応させ、自分の置かれた条件を理由に他者を非難するのをやめ、強く気高い考えを自分自身に作りあげていく。自分を取り巻く状況に文句を言うことをやめ、さらに急速な進歩に役立つものとして、自分自身のうちに隠れている力と可能性を発見する手段として、それを活用するようになるのだ。

万物を支配する原則は、混乱ではなく法則である。生命という魂と物質は、不正義ではなく正義によるのである。精神という政府を形成し動かす力となるのは腐敗ではなく公正である。従って、万物が正しいと知るには、人は自分自身を正しくせざるをえない。自分を正しくしていく過程で、物事や他の人々に対する自分の考えが変わるにつれて、自分にとって物事や他の人々も変わっていくのを発見することになるのだ。

人生の書 - 考える力(3) ジェームズ・アレン著

人は自分のほしいものを引きつけるのではなく、自分自身が引きつけられているのである。思いつきや妄想、野心は一歩ごとに外的環境に妨げられたりもするが、心の奥に秘めた考えや欲望は十分に食料を与えられて増殖し、人を汚れさせたり清浄にしたりしていく。「われわれに結果をもたらす神の手」はわれわれ自身の内にあり、まさに自分自身で作り出しているのである。人は自分自身にのみ束縛される。思考と行動は運命の看守なのだ――その人の根底にあって監禁もすれば、自由の天使となって高貴な存在として開放したりもする。人は自分が願望し懇願するものを得るのではなく、正当に得られるものを得るのだ。願望や懇願は、自分自身の思考や行動と調和したときにのみ満たされ報いられるのである。

この真実に照らしてみれば、「自分を取り巻く状況と闘う」というのは何を意味するのか? それは、自分の心の中で常にその原因を養い保護しているくせに、原因の見えない結果に対して常にいらだっている、ということなのだ。その原因は、自覚された悪徳や無意識の弱さの形をとる場合もあるが、何であれ、それを心中に包含している人の努力を断固として妨害し、声高に救済を求めて叫ぶのだ。

人は自分を取り巻く状況を改善しようと願うが、自分自身を向上させようとはしない。だから内なる自分自身に拘束されたままなのだ。自分に与えられた苦難に尻ごみしない人は、心に定めた目標を必ず実現させる。これは天国においても地上においても真実である。金もうけだけが唯一の目的だという人でも、その目的を実現するには個人的に大きな犠牲を払うことを覚悟しなければならない。どうすれば、強固で安定した人生を実現できるのか?

ここに悲惨なほど貧しい者がいる。自分を取り巻く状況を非常に杞憂し、安寧を得るには改善が必要である。だが、彼は常に仕事を人に押しつけ、安月給だから雇用主を欺くのも当然だと思いこんでいる。こんな人は、真の繁栄の基礎となっている原則の最もシンプルな基本すら理解していないことになる。自分の不幸な境遇から抜け出せないだけでなく、怠惰やごまかし、卑劣な考えに安住し、それを行動に移すことで、自分自身にさらに不幸を引きよせているのだ。

ここに暴飲暴食の結果として、苦しくて頑固な病気にかかった金持ちがいる。彼は病気を直すためならばくだいな金も喜んで払うつもりだが、自分の食欲を犠牲にするつもりはない。豪華で自然に反した食事が好きだという欲望に身をゆだねる一方、健康も保ちたいと思っている。そんな人が健康でいられるはずがない。健康な生活で第一となる原則を、まだ学んでいないからだ。

ここに正規の賃金を支払わずに済ませられる歪んだ策を弄している雇用主がいる。もっともうけようとして、雇っている人々の給料を減らしたりする。ところが、そういう男が繁栄することはありえない。名声と資産の両方で破産したとしても、そういう人は、自分自身がそうした状況の唯一の張本人であるとも知らず、自分を取り巻く状況のせいにするのだ。

ここで三つの例を紹介したのは、人は自分を取り巻く状況の原因を(ほとんどの場合、無意識に)自分で作りだしているという真実を理解してもらうためである。よい結果を得たいと思っている一方で、その結果と相容れない考えや欲望に身をゆだねることで、その結果が達成されるのをたえず自分で邪魔しているわけだ。こういう状況はいたるところにあり、ほぼ無限に変化しうるのだが、読者が自分の心と生活において考える力の持つ法則による行動を追跡しようと思えばできるように、それが必然というわけではない。単なる外的な事実は推論する根拠にもなりえない。

人生の書 - 考える力(2) ジェームズ・アレン著

心が自分を取り巻く状況に及ぼす効果

人の心は庭にたとえられる。知的に耕すこともできるし、荒れるにまかせておくこともできる。だが、耕すにしろ放置するにしろ、それによって必然的に果実が生じてくる。有益な種子をまかなければ、無用な雑草の種子が落ち、はびこり続けることになる。

庭師が土地を耕し、雑草が生えないようにして必要な花を咲かせ果実を実らせるように、人は自分の心という庭に気を配り、誤った無益でよこしまな考えをすべて排除し、正しく有益で純粋な思考という花や果実を実現させるために耕すのである。そうしていくことで、人は遅かれ早かれ自分が自分の心の主人であること、自分の人生を導く者であることを発見するのだ。また、心の中で思考の法則について知り、心がいかに力を持ち、精神的要素がいかに自分の人格や状況、運命の形成に作用しているかを正確に理解するようになる。

心と人格は一体のものであり、人格は環境や状況を通してのみ明確に自己実現され発見できるようになる。それによって、人の人生をとりまく外的条件は常にその人の内なる心の状態と調和した関係にあることがわかるだろう。このことは、どんなときでも人を取り巻く状況がその人の人格全体を示しているという意味ではなく、そのような自己を取り巻く状況はその時点において、その人の発展に必要不可欠な自分自身の心の動きと密接に関連しているということなのである。

人はすべて、自分という存在の法則に従ったところにいる。すなわち、自分の人格を作り上げている心そのものが人をその場所に導いたのであり、人の人生において偶然の要素はなく、すべて誤ることのない法則の結果である。このことは、自分を取り巻く状況に満足している者と同じく、自分が周囲と「調和していない」と感じる者にとっても当てはまる。

進歩し発展する存在として、人は自分が学び成長できる場所にいる。そうやって自分を取り巻く状況から精神的な教訓を得ていくにつれて、取り巻く状況自体も次々に過ぎ去っては変化していくのである。

自分の外にある世界に左右されると信じている限り、人は自分を取り巻く状況に振りまわされるが、自分には創造する力があり、自分の内に隠れた魂や種に対して自分を取り巻く状況から脱して成長するよう命じることができると悟ったとき、人は本来の自分自身の主人となる。

自分を管理し自浄化することを実践してきた者はすべて、自分を取り巻く状況は自分の考えから出ていると知っている。というのも、人は、自分を取り巻く状況は、自分の精神状態が変化するにつれて変化する、ということにいずれ気づくことになるからだ。だから、人が本気で自分の悪い性格を変えようと思い、それを実行し進んでいくにつれて、自分を取り巻く状況もすぐに変化していく。これは本当だ。

魂は、自分が人知れず心に抱き、愛し、恐れているものを引きつける。人は熱望している高みにまで到達することもあれば、抑えられない欲望のレベルにまで落ちていくこともある――自分を取り巻く状況とは、その人の魂が自分自身を知る手段なのである。

まかれた思考の種や、心の中に入りこみ根を張るのを認められた考えはすべて、遅かれ早かれ、自己実現し現実の行為となって花を咲かせることになるし、好機や自分を取り巻く状況という形で結実するのだ。よい考えはよい果実を実らせ、悪しき考えは悪しき果実をもたらす。

自分を取り巻く状況という外的世界は、思考という内なる世界に対して自分自身が具体化されたものであり、外部の楽しいことも不快なことも、その個人の究極の目標を作り出す要素なのだ。人は、自分で種をまいた結果としての収穫物を刈り取る者として、苦しみと喜びの両方を学ぶのである。

自分が自分を支配することを認めた心の奥にある欲望や願望、思考に従った結果として(不純な想像で人を惑わす欲望を追求し、あるいは気高く熱心に努力するという王道を確固として歩いていくことで)人は最終的に自分の人生という外的条件において自分の果実を結実させ成就させることになる。この成長と調整の法則はいたるところで起きている。

人は過酷な運命や外的状況のせいで救貧院や刑務所にやって来るのではない。卑屈な考えや根っこにある欲望という通路を通って、そこに至るのである。心のきれいな者がいきなり単なる外的な力のために犯罪に走ることはない。よからぬ考えが心の中で長い間隠れていて、機会が訪れたとき、それまでに結集していた力が露呈されたにすぎない。自分を取り巻く状況が人を創るのではない。自分を取り巻く状況は、その人がどういう人であるかを自分自身に対して明確にしてくれるだけなのだ。悪習とそれに付随する苦しみは、悪しき心と別に存在するのではないし、美徳やけがれのない幸福感は、高潔な志を引き続き耕していくことと切り離してはありえない。従って、人は、自分の思考の領主であり主人たる存在として、自分自身を創造し環境を形成し生みだしていくものなのである。出生時から人の魂は自分自身にやどり、この地上での長い旅を一歩ずつ歩んで行くことで、自分自身を明らかにするさまざまな条件を引き寄せるのだが、その自分自身というものは、その人の純粋さと不純さ、強さと弱さを反映したものなのである。

人生の書 ― 考える力(1) ジェームズ・アレン著

考える力(1)
 “AS A MAN THINKETH”

ジェームズ・アレン
『人生の書』刊行委員会編訳

ジェームズ・アレン(1864年~1912年) イギリスの作家。『「原因」と「結果」の法則』などの著作がある。

トルストイに感化された彼は、家族をともなって地方都市に隠棲し、著作に専念した。その結果、いわゆる自己啓発書の先駆けともいえる一連の作品群が生み出された。

 現代の自己啓発書の隆盛はアレンに多くを負っているが、アレンの著作と称する邦訳作品には、アレン自身の考えというよりは、論者が自分の主張の裏づけとして都合よく利用するだけだったり、原文から離れて独自の解釈を擬似宗教的に展開したものも多く、必ずしもアレン自身の著作自体が理解されているとはいいがたい状況にある。

そこで、ジェームズ・アレンの著作をできるだけ原作に忠実に訳出することで、作家への理解を深める一助になればと考えて、ここに『人生の書』として発表することにした。

なお、バルザックの『人間喜劇』が彼の作品群の総称であるように、『人生の書』はジェームズ・アレンの一連の著作の総称として、私どもが命名した。

 私どもはジェームズ・アレンの著作をできるだけ忠実に再現することに努力した。独自の解釈や論を主張する気はさらさらない。気に入るも入らないも、まったく読み手の自由である。何かのきっかけで目にとまり、運良く目を通してもらえれば、そうして、その人なりに「ふうん、こういう考えもあるのね」とでも納得してもらえれば、それで十分である。

人をその人たらしめるのは、その人の心であり、
人間とはその人の心そのものである
その人の考え方しだいで
喜びにあふれることもあれば、つらい状況に陥ることもある――
人の思いは目に見えないが、いずれ現実のものとなる。すなわち
人をとりまく環境はその人の真の姿を写す鏡なのだ。

著者のまえがき

本書は瞑想と体験の結果として生まれたものであり、世の中にあふれている思考の力についてあますところなく解説しようとするものではない。解説というよりは提案であり、本書の目的は、次の真実を発見し認識してもらうことにある。

人をその人たらしめるのは、その人自身である

その人が何を選択し何を望んでいるのかで、その人がどういう人であるかが決定される。人の内なる性格やとりまく環境を織り上げるのはその人の心であり、無知や苦痛にさいなまされるのも、喜びや幸福感に包まれるのも、その人の心によるのである。

――ジェームズ・アレン
英国イルフラクーム、
ブロードパーク・アベニューにて

考え方と人格

「その人が心の中で何を考えているかで、その人がどういう人かが決まる」という箴言は、人間という存在の全体を示しているのみならず、その人の人生をとりまく条件や環境すべてに当てはまる。その人が何を考えているかは、まさにその人自身を示しており、その人の思考の総体がその人の人格となっているのである。

植物は種子から芽が出るし、種子がなければ発芽できないように、人のあらゆる行為は目に見えない心という種子から芽を出したものであり、それがなければそういう行為は生じてこない。このことは、意図した行為と同様に、「自然」で「自然発生的」と呼ばれる行為にも等しく当てはまる。

人の行為は思考が花開いたものであり、喜びや苦しみはその果実である。このように、甘美な果実も苦い果実も、自分自身が耕し集めたものである。

心の中で何を考えているかで、どういう人間かが決まる。どういう人かは、
何を考えているかに左右され、それによって形づくられる。心中に
邪悪な考えを抱いていれば、その人には苦痛がついてまわる。
牛車で牛の背後にたえず迫っている車輪のように……
……人が純真な
思いを持ち続ければ、喜びがおとずれる
自分自身の影のように――かならずや

人は法則によって成長し、策略によって創造されるのではない。目に見える世界や物質の場合と同様に、原因と結果は思考という目に見えない領域でも絶対のものであり、それから逸脱することはない。高貴で神のような人格は善意や偶然の産物ではなく、絶えず正しい考え方を持ち続けようと努力してきたことの帰結であり、ずっと神のような考えを抱いてきたことの結果である。下劣で堕落した人格は、同様にこの作用により、絶えずいやしい考えを抱いてきた結果なのである。

人は自分自身によって作られもするし、そこなわれもする。思考という武器は、自分自身を破滅させることもあるし、自分のために喜びや強さ、平安というすばらしい住まいを建てる道具ともなる。正しい考えを選択し正しく適用することで、人は聖なる完全性にまで昇華していく。間違った考えや誤った思考に陥れば、自己を獣のレベルにまでおとしめることにもなる。この二つの両極端の間にすべての人格が存在する。人は自分自身の創造主であり主人である。

この時代になって再び光が当たられている魂に関連する美しい真実すべてのうちで、人は自分の思考の主人であり、人格をつくりあげ、条件や環境、運命を創出し形成するものである──この聖なる約束と信頼ほど、喜ばしくも実り豊かなものはない。

力、知性、愛ある存在として、自分の心の主人として、人はあらゆる状況に対する鍵を持ち、自分自身のうちに自己が望むものを思い描くことにより、それを転換させ再生させていくのである。

人は、最悪の見捨てられた状態にあっても、つねに自分自身の主人であり、自分の弱さや劣化は自分が自分の「家庭」を誤って支配した愚かな主人だからである。自己をとりまく条件について内省し、自分という存在を確立させている法則を熱心にさぐりはじめるとき、人は自分自身の賢明な主人となり、知性によりエネルギーを発揮し、自分の心を実りある問題に向けようとする。これこそ自覚した主人であり、人は自分自身のうちに思考の法則を発見することによってのみ、そうなることができる。この発見はまったく勤勉と自己分析、経験の問題である

金やダイヤモンドは熱心に探して採掘することによってのみ得られる。人は、自分の魂という鉱山を深く掘り下げていくことで、自分という存在に関連するすべての真実を見いだすことができる。自分の心の動きを観察し、支配し、変革し、それが自分や他の人々、自分の人生やそれをとりまく状況に与える影響を追跡し、理解力や知恵、力を持つ存在である自分自身を知る手段として、がまん強く実践し探求しつづけて原因と結果を関連づけ、さらに日常生活で生じるささいなことに対しても自分の経験すべてを活用していくことで、自分という人格を形成し、人生の道筋をつけ、運命を作りあげるのはその人自身であることを証明できる。この方向においてのみ「求める者は見いだし、扉はそれをたたく者に開かれる」という法則が絶対となる。忍耐、実践、絶え間ない探求によってのみ、人は知恵という神殿の扉をくぐることができるのである。

スモール・ボート・セイリング(8)

スモールボート・セイリング
Small-Boart Sailing (8)

ジャック・ロンドン

私は古い人間で、ガソリンの時代より前に育った。その結果、古い流儀がしみついてしまっている。モーターボートよりヨットの方が好きだし、セーリングする方がエンジンで走るより美しくもあり難しくもあり、揺るぎない技術が必要とされると信じている。ガソリンエンジンは誰でも扱える。サルでもエンジンで走れると言えば言い過ぎになるだろうが、エンジンは誰にだって動かせる、というのは正しい。ヨットを帆走させるとなると、そうはいかない。技術も知性ももっと必要だし、途方もない訓練も必要になる。少年や若者や大人にとって、これほどすばらしい訓練の場はない。子供が小さければ、小さくて快適な小舟を与えればよい。あとは自分でなんとかするものだ。教えてやる必要はない。すぐに三角の帆を張り、オール一本で舵を取れるようになる。それから、キールやセンターボードについて語りだし、毛布を持ち出して船に泊まりたくなるだろう。

だからといって心配することはない。危険をおかすだろうし事故に遭うかもしれないが、忘れてもらってはこまる、海の上と同じように託児所でも事故は起きるのだということを。大小の船で死ぬより温室育ちのために死んでしまう子供が増えているが、子供は芝生でクロケットをしたりダンス教室に通ったりするよりも、ヨットでの帆走を経験した方が強くて信頼できる大人になるだろう。

それに、一度ヨットのなんたるかを身につけてしまえば、生涯ヨット乗りでいられるのだ。潮気が薄れることはない。ヨット乗りは年をとらず、あえて風や波と格闘することもいとわない。私はそのことを自分で体験し身にしみて知っている。いまは牧場を経営し、海が見えない場所に住んでいるのだが、牧場にいて海から長く離れていると、そう数ヵ月も経つと、何かしら落ち着かなくなるのだ。前回の航海での出来事について白日夢を見たり、ウィンゴ・スラウの川ではもうシマスズキが泳ぎまわっているだろうかと案じたり、カモの最初の北帰行のレポートに熱心に目を通したりしているのだ。そのうち不意に思い立って大急ぎでスーツケースに荷物を詰めこみ、道具類の点検修理をすませてヴァレーホに向けて出かけていくのだ。そこには小さなローマー号が係留され、私を待ってくれている。そう、主人の足舟が寄って来るのを、ギャレーのストーブに点火されるのを、そうして帆を固縛しているロープがとかれ、メインセールが風に揺れ、リーフポイントがカタカタ音をたて、ちょっと停船し、風を受けてまた動きだし、舵輪がまわされ、湾内を突き進んでいくのを、いつも待ってくれているのだ。
(了)

ソノマ・クリークのローマー号船上にて
一九一一年四月十五日

● 用語解説
キール: 竜骨。船首から船尾まで船の中央下部を貫く構造材。外洋ヨットではキールと呼び、一般に横流れ防止と横倒しになっても復元するための重しを兼ねている。
センターボード: ヨットで横流れ防止用に船底から下に出ている板。一般に小型ヨットでは前部を軸にして下側に回転するものを指し、レーザー級などのディンギーで上から差しこむ矩形の板はダガーボードと呼んで区別される。
ウィンゴ・スラウ: ミズーリ州(米国中西部)の地名。
ヴァレーホ: カリフォルニア州(米国西海岸)の地名。
ギャレー: 調理をする区画。いわゆる厨房。
ストーブ: 小型ヨットでは、暖房用のストーブではなく煮炊き用のコンロを指すことが多い。

スモール・ボート・セイリング(7)

スモールボート・セイリング
Small-Boart Sailing (7)

ジャック・ロンドン

風の強い闇夜に暖かい寝床を抜け出し、状況が悪化した錨泊地から脱出するのは楽しいことではない。そのとき、われわれはやむをえず寝床から起き上がり、メインセールにツーポンリーフを施しておいてから、錨を揚げはじめた。ウインチは古くて、波で船首が上下する際にかかる負荷には耐えられず故障してしまったが、とはいえ、錨を手で揚げるのは無理である。実際にやってもみたのだが、びくともしなかった。むろん、とりあえず錨綱に目印のブイをつけておいてからその場を離れるという手もあったのだが、われわれはそうせず、他のロープを用意して元の錨とは向きを変えて別の錨を投げ入れた。

それからもほとんど眠れなかった。というのも、船が横揺れするため、一人ずつ寝床から放り出されてしまうからだ。海はますます荒れてきて、船が走錨しはじめた。潮通しがよく海底が滑らかになっている海峡まで出てしまうと、二つの錨がスケートをするように滑っている感触があった。海峡は深く、対岸は渓谷のように急峻なかけあがりの崖状になっていた。錨はその崖にぶち当たり、そこで持ちこたえた。

しかし、錨が効いて船がそれ以上流れなくなると、暗闇を通して、背後の岸に砕ける波の音が聞こえた。非常に近くだったので、足舟の舫綱を短くした。

明るくなってみると、足舟の船尾はきわどいところで破損を免れたことがわかった。なんという風だったことか! 時速七十マイルから八十マイル(風速三十六メートルから四十一メートル)の突風が吹いたりもしたのだが、錨は持ちこたえてくれた。逆に、がっしり食いこんでいるので、今度は船首のビットが船からはぎ取られるのではないかと心配になったほどだ。一日中、われわれのスループは船首と船尾が交互に持ち上がったり沈みこんだりしていた。嵐がおさまったのは午後も遅くなってからだったが、最後に猛烈な突風が吹いた。まる五分間の完全な無風状態の後、ふいに雷鳴が起こり、南西方向から風がうなりを上げて吹き寄せてきた。風向は九十度も変化し、暴風が襲ってきた。こんな状況でもう一晩すごすのはこりごりだったので、われわれは向かい風の中で、手で錨を揚げた。重労働なんてものじゃなかった。心が折れるとはこのことだ。われわれは二人とも苦痛と疲労で泣き出す一歩手前までいっていた。ともあれ最初の錨を引き上げようとするものの、錨は抜けない。波が押し寄せてきて船首が下がったときにゆるんだロープを船首のビットに余分に巻きつけておいて、次の波で船首が持ち上がるのを利用して引き上げようとした。ほとんどすべてのものが壊れてばらばらになったが、錨は食いこんだままだった。チョックは急激な力が加わったので外れてしまうし、舷側もちぎれ、それをおおっていた板も割れたが、錨はまだ食いこんだままだった。仕舞いには縮帆したメインセールを揚げて、張力のかかったチェーンを少したるませながら帆走で抜錨しようとした。しかし、力が均衡した状態でにっちもさっちもいかず、船は何度か横倒しになった。われわれはもう一つの錨でもこの作業を繰り返したのだが、そのうち河口の避泊地にはまたも宵闇が迫ってきた。

● 用語解説
ツーポイントリーフ: 二段階に縮帆(リーフ)すること。風の強さに応じて、ワンポン(一段階)、ツーポン(二段階)、スリーポン(三段階)と帆の面積を小さくしていく。
ウインチ: ヨットでロープ類を巻き上げる小型の装置。錨を巻き上げるものはウインドラスともいう。
ビット: 舫い綱などの端を固定しておく支柱のようなもの。現代のヨットではクリートを用いるのが一般的。
チョック: 舫い綱や錨綱を船上に引きこむ際に船縁でロープを通すところ。船体の補強とロープの摩耗防止を兼ねている。フェアリーダーともいう。

スモール・ボート・セイリング(6)

スモールボート・セイリング
Small-Boart Sailing (6)

ジャック・ロンドン

土手はでこぼこしているし、船の真下では潮が急激に引いて、おそろしく汚くて悪臭のする、潮汐のたびに姿を現すおぞましい干潟が見えていた。クラウズリーがそれを見下ろしながら私に言った。
「愛してるぜ、兄弟。俺はあんたのためだったら決闘もするし、吠えるライオンにだって立ち向かってみせる。野垂れ死にも洪水もこわくはないし、あんたがここに降りさせるようなことはしない」 そう言いながら、彼は吐き気に身震いした。「だけど、もしあんたが落っこちてしまったら、俺にはあんたを引き上げる度胸はねえからな。無理にきまってる。あんたはひどいことになるだろうし、俺にできるのは、ボートフックをつかんで、あんたを見えないところまで押しやることだけだろうよ」

われわれは船室で上になった側壁に座ってデッキにもたれ、船室の屋根に足をぶらぶらさせながらチェスをした。潮が満ちてきたところで、ブームリフトの滑車とタックルを使い、船をまた頑丈な竜骨の上に立たせることができた。それから何年もたってから、私は南海のイサベル島で同じような窮地に陥ったことがある。船体に張った銅板の汚れを落とすため、浜辺でスナーク号の側面を海側に傾けたのだが、潮が満ちてきても船は起き上がろうとしなかったのだ。海水がスカッパーから入ってきた。海水は舷側を乗りこえ、斜めになったデッキをじりじり上がってくる。われわれは機関室のハッチを閉めた。海面はそこまで達し、さらに船室のコンパニオンウェイや天窓の近くまで上昇してきた。われわれは皆熱があったのだが、熱帯の炎天下で何時間も必死に作業するはめになった。一番太いロープをマストヘッドに結んでおいてから陸まで運び、この重い船を引き起こそうとしたが、われわれ自身を含めて、すべてがこわれてしまった。われわれは疲労困憊し、死人のように横たわった。それから、また立ち上がって引っ張り、そうしてまたぶっ倒れた。下側の舷側は海面下五フィートに沈み、さざなみが寄せてきてコンパニオンウェイを包みこむようになってやっと、この頑丈で小さな船は身震いし、動揺し、そうして再びマストが天頂を向いたのだ。

小さな船を帆走させていると運動不足になることはないし、重労働はその楽しみの一部でもあり、医者いらずってことにもなる。サンフランシスコ湾はちっぽけな池などではない。大きいし、風もよく吹き、変化の激しい海域だ。ある冬の夕方、サクラメントの河口へ入ろうとしたときのことを思い出す。川は増水していた。湾からの上げ潮も流れに負けて強い引き潮になっていた。日が差すと、力強い西風は衰えた。日没だった。順風から中風くらいの追い風を受けていたのだが、急流をさかのぼることはできなかった。われわれはいつまでたっても河口にいたのだ。投錨地はなく、後退する速度もだんだん速くなってくる。風がなくなってしまったので、河口の外に出て錨を下ろした。夜になった。美しくて暖かく、星がよく見えた。私がブリストルの流儀ですべてをデッキに出している間に、仲間の一人が夕食を作った。九時になると、天候が回復する見こみがでてきた(気圧計を積んでいたらもっと正確にわかっただろう)。午前二時までにはサイドステイが風で鳴り出したので、私は起きだして錨索を繰り出した。もう一時間もすれば、間違いなく南東の風が吹き出してくるだろう。
● 用語解説
イサベル島: 南太平洋(メラネシア)にある島。
スナーク号: ジャック・ロンドンが建造したヨット。これに乗って太平洋を周航し、『スナーク号の航海』(未訳)を著した。
スカッパ: 排水口。
コンパニオンウェイ: 船室への入口。
サイドステイ:  マストを横方向から支える静索。

スモール・ボート・セイリング(5)

スモールボート・セイリング
Small-Boart Sailing (5)

ジャック・ロンドン

 結局、こういう厳しい出来事というものは、小さな船でのセイリングで最上の部分である。振り返ってみれば、そうしたことが楽しさにメリハリをつけてくれたのだと思う。小さな船での航海では自分の勇気や決意が試されたり、また神様に恨まれていると思いこむほど悲観的になったりもするのだが、後になってみると、そう、後になってみると楽しい記憶として思い出されるし、小さな船で帆走している仲間のスキッパーたちとの交流にもなつかしさを感じるのだ!

狭くて曲がりくねった沼沢地。潮が半分引いて出現した泥の海。近くの皮なめし工場のタンクから出る廃液で変色し濁った海。両岸のいたるところに点在する荒れ果てた果樹園の陰で草が生い茂っている湿地帯、倒壊しそうな古くこわれた波止場。そうした波止場の先端に係留されている白く塗られた小さなスループ型のヨット。ロマンティックなところは微塵もない。冒険の香りすらしない。小型艇でのセイリングでよく語られる楽しさとは裏腹の、絵に描いたような見事に逆の現実。クラウズリーと私にとっては、それは朝食を作り、デッキを洗うといった、つつましくも地味な朝ということになるだろうか。デッキ洗いは私の得意技だが、デッキの向こうに広がっている汚れた海面を見たり、ペンキを塗ったばかりのデッキを見たりしているうちに、やるきが失せてしまう。で、朝食後、チェスを始めた。潮が引き、ヨットが傾き始める。だが、転げ落ちそうになるまでチェスを続けた。傾きがますますひどくなったのでデッキに出てみると、船首と船尾の舫い綱がピンと張っていた。傾いた船の様子をうかがっていたところ、急にまた傾いた。綱は限界まで張りつめている。
「船腹が海底についたら傾きもとまるさ」と私が言った。
クラウズリーは舷側からボートフックで水深を測っている。
「水深七フィート(約二・一メートル)」と彼は言った。「深いところと浅いところがあるが、船がひっくり返って最初に当たるのはマストだろうな」

船尾の係留ロープから不気味な、かすかに切れる音がした。見てみると、ストランドがすり切れていた。おおあわてで船尾から波止場にもう一本のロープを渡して結ぶのと同時に、元のロープが切れた。船首側のロープにも一本増し舫いをしたが、最初に結んでいたロープが音をたてて切れた。その後の作業と興奮は地獄絵図さながらだった。

私たちは舫い綱の数を増やしたが、ロープは次々に切れていき、いとし愛艇の傾きはますますひどくなった。ありったけの予備ロープを使った。帆の展開に使うシートや帆を揚げるハリヤードも外して使った。太さが二インチもある綱も使った。マストの上部や真ん中あたりなど、いたるところにロープを結びつけた。懸命に作業し、汗をかき、神が自分達を呪ってるんだと互いに本気で言いあった。地元の連中が波止場にやってきて、じろじろ眺めている。クラウズリーが巻きとったロープを傾いたデッキから汚いヘドロに落としてしまい、船酔いした蒼白な顔で引きあげていると、地元の連中が大声ではやしたてたので、私は、彼が波止場に登っていって人殺しするのをかろうじて阻止した。

スループのデッキが垂直になるまでに、ブームリフトの下端をほどいて波止場の係船柱に結びつけた。一方の端はマストヘッドに導かれている。滑車とロープを組み合わせたテークルでピンと張った。ブームリフトは鋼線だ。これなら荷重に耐えてくれるだろうと確信したが、マストを支えているステイの保持力についてはそうは思えなかった。

引き潮はまだ二時間は続く(潮が大きい時期だ)し、となれば、また潮が満ちてきてスループが無事に起き上がるかどうかわかるまであと五時間はかかるということだ。

● 用語解説
スキッパー: 小型船の艇長。
ボートフック: 舫先端が鉤(カギ)状になった竿。
ストランド: より糸。細い糸を束ね、より合わせて太いロープが作られる。
ブームリフト:  マストトップからメインセールのブーム(帆桁)を吊っているロープ。