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                  将来の遊技の一大科 (2)
『蝸牛庵夜譚』所収


幸田露伴
幸田露伴(1867年〜1947年) 明治を代表する文豪。代表作に『五重塔』『天うつ浪』など。
夏目漱石と同世代だが、文語体の作品や江戸、中国についての博覧強記な随筆などのためか、それより古いタイプの書斎人という印象があるが、釣りなどアウトドア好きの一面も。千島列島の探検・開発で知られる探検家・郡司成忠は露伴の実兄。この随筆は明治40年刊行の『蝸牛庵夜譚』所収。
  

 水上生活の愉快

 いかなる富豪でも陸上においては移動しうる大邸宅を有することはできない。実に善美の別荘でも、造花の手で按配(あんばい)せられる四季の変化を除いては、小山(こやま)一つ小流(こながれ)一つを変化せしむることもまず難(かた)い。

 で、その高楼から見る景色はいつも同様で、その窓から見る青山白水(せいざんはくすい)はいつも同じ青山白水である。そこで景色の好い方に面した窓を平常は閉じておいたというような面白い心がけの人でない平凡の人であってみると、いくら好い風景のところに家(いえ)しても、三日目には鼻につき、五日目、六日目には感じなくなってしまって、せっかくの別荘にもただちに厭(あ)いてしまうのが常である。財力の非常に豊かなものはその結果として四ヶ所にも五ヶ所にも邸宅を構えるようになり、それまでに及ばぬ者は好風景の地にいながら、窓も明けずに花合(あわ)せ友達と花牌(かるた)遊びをするというようになる。

 この海岸線の多い日本に住み、かつは平穏な内海を前にした首都に住んでいながら、変化無尽(むじん)なる景色の中に移動しうる邸宅を構えるもののないのは実に愚かなことではあるまいか。いや愚かなわけではないが、先例のないことには誰しも手を出しかねるもので、ひっきょう水上生活の面白さを解(かい)せぬからのことである。

 が、想像してもわかることで、百数十トンから以上の船の広さは、陸上の家屋にしてみてもかなりの大きさである。数百トンの船にしてみればなかなかのものである。好みによってはなお大なるものもよろしい。

 それらのヨットを好み通りに建造して、そのサルーンを自己の趣味に従って装飾し、家族や朋友(ほうゆう)と共にこれに乗じて、あるいは海上遠くも去り、あるいは陸地近くも来たり、または北方の障壁断巌(しょうへきだんがん)の凄(すさま)じい景色の地、または南方の砂浜松洲(さひんしょうしゅう)の明媚(めいび)な景色の地、いずこなりともわが好むところの地に船を繋(つな)ぎ、花に月に夏に冬に賞覧(しょうらん)をほしいままにし、時には長風(ちょうふう)に賀(が)して朝鮮半島、中国、ロシア、南洋(なんよう)アメリカないし諸外国へまでも駛走(しそう)したらば、実に雄壮の趣味も優美の趣味もただこの一隻船(いっせきせん)によりて愉快に味わいうることではないか。

 しかもサリヴァンの記(しる)するところによれば、ヨットを競走の目的でなく、単に愉快のために使用するにおいては、さのみ費用をも要せないで、百トンから二百トン位の船では幾許(いくばく)も要せぬようである。同人が記(しる)しているには、陸上の生活は贅沢な仲間であれば一週間に宿屋の費用が三十ポンドから四十ポンドあるいは五十ポンドくらいは容易にかかる。けれどもヨットの方はその半額で三、四ヶ月間、百トンあるいは百五十トンの船で遊ばれて、そのうちに水夫などの賃銭や、船具の破損料、食物など一切を含んでいる、とある。

 その言の当否は予(よ)には判断しかねるが、けだし費用をかけるかけぬは、陸上で加減するよりよほど自由にゆくらしい。よしや反対に少々高価であるとしたところで、陸上では、たまたま別荘を構えれば、隣家にあまり感心せぬ者が住んでいて不快を与えてくれたり、村人の好遇を受けなかったり、いかんともなしがたい種々のことに遭遇して困却することがありがちのものであるが、ヨットであればすべて不快の箇所には遠ざかり、わが好む所にのみ居(お)るをうるの便があるのだから、むしろ高価でも忍ぶべきである。いわんやまた海上生活が肺病(はいびょう)や気管支病(きかんしびょう)や咽喉病(いんこうびょう)や喘息(ぜんそく)やなんぞに対して自然の薬剤たることは、とても温泉やなんぞの比でないにおいてをやだ。

 荒潮(あらしお)に洗われて差し出(いず)る初日、浪の果てに沈む弦月(げんげつ)、あるいは高華(こうか)あるいは清冷(せいれい)、これらの景色はなにほど怯懦(きょうだ)の人や煩悶(はんもん)の人をして自然の大なる教えに浴せしむるを得るだろう。実にあにただ愉快とのみいはんやである。


遠航の愉快
 新しい刺激は新しい知識と新しい興感(きょうかん)とを生ずる。この点において外国にまでの遠航は実に人の智を広め肝を壮(さかん)にし感興を新鮮にする。特にヨットに乗じて世界を周遊(しゅうゆう)するなどということになれば、その一船に招致しえた学者や才人や美術家やの知識と技芸の分量とに応じて、世界の種々の価値あるものを吸収したり批評したり消化したりして、直接には興味深く一切の事物に触接(しょくせつ)し、間接には学芸に何物をか貢献寄与することになる。

 これらはヨットの本旨(ほんし)の方から言えばむしろ副産物的の結果であるが、決して軽視することのできぬことである。ヨットの本然(ほんねん)から言えば、八方の風を駆使して五大洋をわが馬場のごとくにみなすところに興味があるのであるが、副産物もまた小なるものではない。公務に服する軍艦ではなし、実利を主とする商船ではなし、純粋に遊戯のために万里(ばんり)を往来するというのは、馬鹿げているようではあるが実に尊ぶべきで、そしてその副産物も侮(あなど)るべきではないから、英国政府がヨットに対してはまったく免税し、かつまた軍艦あらざる時は公用浮標に緊纜(けいらん)しうるの権利を与え、また軍艦は入港し来たれる外国のヨットに対して時辰儀(じしんぎ)の差を教え正す等の便宜(べんぎ)を与うるを慣例とするごときことも生じたのであろう。何故となればヨットの乗者は実にその品格において高級を占むべき人士(じんし)なること自明の道理であるからである。

 遊戯である、遊戯である、実にただ遊戯である。しかしながら他のいくたの遊戯のごとく不純不美(ふじゅんふび)であったり、または厭(いと)はしい副産物を多く有している遊戯でない。日月(じつげつ)や星辰(せいしん)や雨露(うろ)や霜雪(そうせつ)や、一切の自然に親炙(しんしや)して、そして大海の水の懐(ふところ)に抱かれて大空の風の手に擁せられて遊ぶ遊戯である。ブラッセイ卿がその高名なるサンビーム号その他のヨットに乗じて、遊戯とはいえ千八百五十四年より千八百九十三年までの間において二十二万八千六百八十二海里を悠然航走せるがごときは、実にヨットの遊びの中には無経験者の想到(そうとう)せざる幽趣妙処(ゆうしゅみょうしよ)の人を引きつくるものあるがためであることを思わしめるではないか。


競走の愉快

 ありてい言えば予(よ)は競走ということについてあまり多く好まぬ故に、ヨットレースについてはむしろあまり多く言うを好まない。しかしヨットを談じて競走を談じなければ、全然無意味になってしまう。ヨットの競走の妙はけだし一新機軸を出(いだ)したヨット、もしくは大改良を施したるヨットを率いて相戦(あいたたか)うにあるので、他の腕力脚力等の比較、もしくは人間のなんらかの動物的精力の比較に勝負を決するところの、やや愚劣なる競争や競走とは異なっている。

 で、千八百七十五年にヨットレース協会ができ、ヨットレースの規則ができてから大(おお)いに一切は整頓して、英国はいうに及ばず米国、ドイツでも各々競走に熱することひと通りではない。むろん小競走は各地にもあるが、大競走は国と国との間にも起こる。すなわち世界的なのである。

 ヨットレースの賞杯の歴史はすなわち世界のヨッティングの歴史といってもよかろう。わが国なんぞからも参加するがよいのである。ドイツ皇帝がそのメテオルに乗じてシャツ一枚でメインシートを引っ張ったり、英国皇帝がウェールズ親王時代においてしばしばブリタニヤに乗御(じょうぎよ)せられたことは誰も知っている事実であるが、わが国の貴公子にもやがてあるいはそういう人も生ずるであろう。

 英国のヨットの数は純帆船二千二百余艘(そう)にして計六万四千余トン、汽機(きき)を具(ぐ)せるもの七百艘(そう)にして計六万八千余トン、すなわち総計十三万余トンにして、なお小ヨット三千隻はこの算計に包含しないといえば、その盛んなこと、実に驚くべきで、ああさすがに皇帝国たる英国であると思われる。

 古い遊戯はもう復興せずともだ。かくのごとき遊戯はあるいは将(まさ)に起こらんとするではなかろうか。予(よ)はわが国の位置から考えてもまさに起こすべき遊戯だと思う。猪牙(ちょき)や屋根船(やねぶね)や屋形船(やかたぶね)や御座船(ござぶね)の時代は過ぎた。横浜から伊豆の大島までの逆風競走が挙行されるなどという新聞紙の記事は、けだし遠からずして世に現われるようになるだろう。                     <了>


『蝸牛庵夜譚』は1907年刊行。
底本: 春陽堂版『明治大正文學全集』第六巻。
旧字体の漢字、旧仮名遣いは新字体、現代仮名づかいに改め、漢字の読みはルビではなく (読み) の形で直後につけ加えてあります。
また、現代の読者の便宜を考慮し、句読点、改行なども必要とみなされる範囲で適宜修正してあります。
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