立ち読み:よくわかる潜伏キリシタン関連遺産
よくわかる潜伏キリシタン関連遺産
潜伏キリシタン研究会編著 定価500円 2018年7月1日発行 ISBN 978-4-908086-03-8 |
ユネスコの世界文化遺産に登録されたばかりの「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」のガイドブックです。
立ち読みコーナー
ここでは、本書の「はじめに」から構成遺産1 原城跡(はらじょうあと)まで、お読みいただけます。
よくわかる潜伏キリシタン関連遺産
潜伏キリシタン研究会
目次
はじめに
構成遺産1 原城跡(はらじょうあと)
構成遺産2 平戸(ひらど):春日(かすが)集落と安満岳(やすまんだけ)
構成遺産3 平戸(ひらど):中江ノ島(なかえのしま)
構成遺産4 天草(あまくさ)の崎津(さきつ)集落
構成遺産5 外海(そとめ)の出津(しつ)集落
構成遺産6 外海(そとめ)の大野(おおの)集落
構成遺産7 黒島(くろしま)の集落
構成遺産8 野崎島(のざきじま)の集落跡
構成遺産9 頭ケ島(かしらがしま)の集落
構成遺産10 久賀島(ひさかじま)の集落
構成遺産11 奈留島(なるしま)の江上(えがみ)集落
構成遺産12 大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)
潜伏(せんぷく)キリシタン関連のキーパーソン
潜伏(せんぷく)キリシタン関連年表
もっと詳しく知るには
はじめに
隠(かく)れキリシタンと潜伏(せんぷく)キリシタン
隠(かく)れキリシタンという言葉はよく聞きますが、潜伏(せんぷく)キリシタンという言葉は耳なれないですね。
どう違うのでしょうか?
簡単にいうと、
江戸時代を中心とするキリスト教の信仰が禁止されていた時代に、仏教や神道を信仰するふりをしながら、ひそかにキリスト教信仰を守った人々を、広い意味で「潜伏(せんぷく)キリシタン」といい、
江戸時代末期に大浦天主堂でプチジャン神父によりキリスト教の「信徒が発見」され、明治になって禁教令が解かれてからもキリスト教信者であることを秘している人々を、狭い意味での「隠(かく)れキリシタン」と呼びます。
ですが、従来の日本史で使われていた「隠(かく)れキリシタン」には両方の意味がこめられていたので、実質的な違いはないといえるでしょう。
長崎と天草地方の潜伏(せんぷく)キリシタン関連遺産
12の関連遺産で構成され、離島を含めた広い範囲に点在し、建物だけでなく、ごく普通の集落や里山なども含まれています。
そのため、たとえば世界文化遺産に登録された群馬県の富岡製糸場(せいしじょう)や白川郷(しらかわごう)の合掌(がっしょう)造り集落などとは大きく異なり、過疎地や船の便が少ない離島も多く、「全部を1日で見てまわる」のはとても無理です。
平戸(ひらど)の中江ノ島(なかえのしま)のように、一般には渡航する手段がなく上陸できないところもあります。
さらに、当初の世界文化遺産の申請では「長崎の教会群」という異国情緒あふれる、いかにも観光の目玉となりそうなフォトジェニックな(写真うつりのよい)建物が中心になっていましたが、世界文化遺産登録をユネスコに勧告する立場の国際記念物遺跡会議(イコモス)は、建物中心ではなく、潜伏した信者が命がけで伝えてきた伝統の文化や信仰の形を中心にするよう助言し、現在の潜伏キリシタン関連遺産となったわけです。
ですから、必ずしも「インスタ映え」する風景や珍しい品々がそろっているわけではありません。ごくありふれた日本の田園風景にしか見えないところも多くあります。
しかも、そこに住んでいる人々の日常の生活/信仰にもふれるデリケートな問題でもあり、有名な観光地やレジャーランドに遊びに行くのとは違った配慮が必要になります。
そこで、何回かにわけて、あるいは季節ごとに、長崎市内の観光やハウステンボスでのお楽しみなどと上手に組み合わせて、いわば百名山を一つずつ登っていくように、手近なところから少しずつ訪ねてみることをお勧めします。
地域ごとに分けた探訪コースについては、地元旅行サイトで紹介されていますし、そういう情報をうまく活用して、自分なりのプランを考えるのも楽しいかもしれません。
ご注意
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産や周辺にある教会の内部を見学するには、大浦天主堂は別にして、事前に連絡する必要があります。
インターネットからオンラインで事前連絡することができます。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター
12の関連遺産は、
「はじまり」
「信仰にかかわる伝統の形成」
「信仰にかかわる伝統の維持と拡大」
「伝統の変容と終わり」
の4段階に分類されています。
厳密には、どれか一つではなく、複数の段階にまたがるものが多くあります。
江戸時代の初めに九州の島原半島(島原藩)と天草諸島(肥前・唐津藩の飛び地)で起きた一揆(いっき)である島原・天草の乱(1637年~1638年、寛永十四年~十五年)は、重い年貢など圧制に苦しむ地方の農民一揆であるにもかかわらず、各藩で鎮圧できず、九州の諸藩はいうにおよばず、江戸の老中・松平信綱(まつだいらのぶつな)まで出陣するなど、幕藩体制をゆるがしかねない大事件になってしまいました。
一揆勢にキリシタン(キリスト教徒)が多く含まれていたことなどから、乱の平定後、江戸幕府はキリスト教禁止をそれまで以上に徹底するため鎖国(海禁政策)へと大きく舵を切っていくことになったのです。これがそもそものはじまりです。
秀吉のバテレン追放令や江戸時代の1612年(慶長17年)の禁教令、翌年の追放令など、島原・天草の乱の以前から、キリスト教の信仰や布教を禁じる命令は何度も出されていたのですが、南蛮貿易で利益がもたらされることなどもあって、あまり徹底されていませんでした。
それが、この乱をきっかけにして、棄教(ききょう)の徹底とはげしい取り締まりや弾圧がはじまったのです。
その島原・天草の乱の最後の舞台となったのが、一揆勢が立てこもった原城跡(はらじょうあと)で、これが構成遺産1になります。
キリシタンは棄教[ききょう:キリスト教の信仰をすてること]を強要され、従わない場合は処刑されたため、どうしても信仰を捨てられない人々は、表向きは仏教や神道を信仰するふりをしながら、キリスト教信仰を維持し守りつづけました。潜伏(せんぷく)キリシタン/隠(かく)れキリシタンの「はじまり」です。
すぐにキリシタンとわかる十字架などは使えないため、人々は地元の山や島を聖地や殉教地としてあがめたり、仏教の子抱観音やアワビなど、ごくありふれた日常の道具を信心具(しんじんぐ)として用いたりしました。
それが信仰にかかわる伝統形成で、
平戸(ひらど)の聖地と集落:春日(かすが)集落と安満岳(やすまんだけ)が構成遺産の2
同じく平戸の中江ノ島(なかえのしま)が構成遺産の3、
天草下島(あまくさしもしま)の崎津(さきつ)集落が構成遺産の4、
東シナ海に面した西彼杵(にしそのぎ)半島西岸にある外海(そとめ)の出津(しつ)集落と大野(おおの)集落が、それぞれ構成遺産の5と6になっています。
しかし、長い年月の間には信仰を隠しきれないこともありますし、それが露見し処罰された「〇〇崩(くず)れ」は江戸時代に何度も起きています。
そのため「もっと人眼につきにくいところへ」というわけで、あまり人の住んでいない(監視の目が届きにくいと思われた)離島への移住と開拓がはじまります。
黒島(くろしま)の集落[構成遺産7]、
野崎島(のざきじま)の集落跡[構成遺産8]、
頭ケ島(かしらがしま)の集落[構成遺産9]、
久賀島(ひさかじま)の集落[構成遺産10]、
奈留島(なるしま)の江上(えがみ)集落[構成遺産11]
が、信仰にかかわる伝統の維持と拡大段階の関連遺産です。
ペリー率いる黒船来航から十一年後の1864年(元治1年)、長崎で居留地(きょりゅうち)などの外国人向けに大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)が完成しました。
ここで宣教師と潜伏していた信徒がほぼ二百五十年の歳月を経てふたたび出会うことになる(「信徒発見」)のですが、その舞台となった大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)が構成遺産12になり、潜伏キリシタンの信仰はまたここで新たな「変容と終わり」の段階へと進んでいくことになります。
長崎と天草地方に現存するキリスト教会群(建築物)はすべて、禁教令が解かれた後の変容と終わりの時代のものです。
ですから、キリスト教の教会は、日本の風景として異国情緒にあふれ、観光の目玉にもなっていますが、禁教時代の潜伏キリシタンにとって、実際に見たことがないものなのです。
目に見える信仰の対象としては、ごくありふれた里山や島や仏教の子抱観音、アワビの貝殻の模様などしかなかったということを考えると、一口に信仰の維持と継承といっても、生半可な決意で守り通すことなどできなかっただろうということは想像できるのではないでしょうか。
おことわり
1.写真の撮影・掲載に当たっては大司教区の許可をいただいています。
2.写真には個別に著作権表示を行っていませんが、 一般社団法人長崎県観光連盟提供のものが多く含まれています。
3.交通アクセスは代表的なルートを示しています。
運行/運航に変更が生じる場合もありますので、ご利用の際は最新情報をご確認ください。
4.本書は、レイアウトを固定しない、リフロー型の電子書籍です。
スマホやパソコンなど画面の大きさに応じて表示が変化します。
5.所在地の「座標」(GPSの緯度経度データ)は最適と思われる地点の位置を示しています。
かならずしも車や徒歩でのナビに適した座標(道路沿い等)にはなっていません。
長崎と天草地方の潜伏(せんぷく)キリシタン関連遺産の構成遺産
どこにあるの?
1.原城跡(南島原市)) 2.平戸の聖地と集落:春日集落と安満岳(平戸市))
3.同:中江ノ島(平戸市) 4.天草・崎津の集落(天草市)
5.外海の出津集落(長崎市) 6.外海の大野集落(長崎市))
7.黒島の集落(佐世保市) 8.野崎島の集落跡(小値賀町))
9.頭ケ島の集落(上五島町) 10.久賀島の集落(五島市))
11.奈留島の江上集落(五島市)12.大浦天主堂(長崎市)、
長崎県を中心に、一部は熊本県を含めた地域に、点在しています。
構成遺産1 原城跡(はらじょうあと)
Remains of Hara Castle
本丸付近から二の丸を望む
左上の背景に見えているのは雲仙・普賢岳
少し色の違う右側のコブが平成新山(最高点)
右手は有明海
所在地
長崎県南島原市有馬町
座標(本丸付近)
北緯32度38分04秒
東経130度15分29秒
交通アクセス
JR九州・諫早駅-<島原鉄道>-島原駅-<島鉄バス>-原城前バス停
照会先
JR九州(電話095-822-0063)
島原鉄道(電話0957-62-2232)
島鉄バス(電話0957-22-4707)
「南島原市が現地に設置している案内図」より
現在地とあるのは本丸正門付近
1:ほねかみ地蔵 2:本丸正門跡
3:本丸櫓台跡 4:天草四郎像(北村西望作)
5:天草四郎の墓碑 6:池尻口門跡
島原・天草の乱(あるいは島原天草一揆、島原の乱など)では、一揆勢にキリシタン(キリスト教徒)が多数含まれていたことなどから、この乱がきっかけとなり、幕府は平定後にキリスト教禁止を徹底するため鎖国へと大きく舵を切ることになりました。
キリスト教を信仰する人々は、信仰を捨てて仏教などに転向することを迫られました。
死か信仰か、という究極の選択です。
表向きは仏教や神道を信仰するふりをしながらキリスト教信仰を守りつづけた人々を、広い意味で「潜伏(せんぷく)キリシタン」と呼び、それが世界の歴史でも稀な日本独自の信仰のかたちとして貴重だとされています。
島原・天草の乱の激戦地や遺跡は有明海をへだてた天草諸島にも多数ありますが、一揆勢が最後に立てこもった原城跡(はらじょうあと)がその代表として遺産1に指定されました。
ここから先の丘陵が原城跡
海に面した南側から本丸方向の眺め
原城は、もともとは有馬(ありま)氏の日野江城(ひのえじょう)の支城でした。
乱勃発(ぼっぱつ)当時、一国一城令により廃城となっていたのですが、天草の一揆勢も海を渡って島原半島の一揆勢と合流し、この最終的にこの原城に籠城したため、幕府軍との壮絶な戦いが繰り広げられることになったのです。
一揆勢の総大将は天草四郎(あまくさしろう。益田四郎時貞とも)です。
原城がある南島原市出身の彫刻家・北村西望(きたむらせいぼう)作の天草四郎像
北村西望は長崎平和祈念像の作者として広く知られています。
この他にも天草四郎の像は各地に数多くあります。
*天草四郎の出生地については、宇土(うと)や長崎など諸説ありますが、大矢野島(上天草市)の出身とするのが有力なようです。
文学作品や映画などでもおなじみ「紅顔の美少年(?)」だったとされています。
美少年だったかはともかく、父親はキリシタン大名だった小西行長(こにしゆきなが)に使えた家臣で、四郎がまだ十六歳の少年だったことは史実のようです。
島原はもともとキリシタン大名・有馬晴信(ありまはるのぶ)の領地で、天草も同じくキリシタン大名・小西行長(こにしゆきなが)の領地でした。
有馬晴信の息子の直純(なおずみ)もキリシタンでしたが、徳川家康の養女と結婚して棄教(ききょう)し、日向(ひゅうが)に転封されました。そのため、キリシタンだった家臣の多くは島原・有馬に残ったとされます。
島原は松倉氏の領地となり、重い年貢が課せられキリシタンも弾圧されました。
一方、小西氏は関ケ原の戦いで西軍に加担して捕縛・処刑されました。
天草は唐津(からつ)藩の飛び地として寺沢(てらさわ)氏が治めることになり、こちらでも同じく過酷な年貢が課せられキリシタン弾圧も行われました。
島原・天草の乱は、基本的に「重税にあえぐ農民の一揆」に浪人が加わったもので、「精神的支柱としてキリスト教信仰があった」とみるのが一般的なようです。
そのため、一揆に参加して死亡した人々は、ローマ=カトリック教会から「殉教者」とはみなされていません。
原城に籠城した一揆勢は、約3万7千人。
それに対し、老中(ろうじゅう)・松平信綱(まつだいらのぶつな)が指揮する討伐軍は、九州諸藩から派遣された軍を含めて総勢12万人を超えました。
一揆としては日本の歴史上、最大規模でした。
天下分け目の戦いといわれた関ケ原の戦いで、東軍の兵力は約9万、西軍は約8万だったとされていますから、この討伐軍の規模がいかに大きかったか(幕府の驚きがいかに大きかったか)想像できますね。
一揆勢は島原城を攻撃しましたが、落とすことができず、廃城となっていた原城に立てこもり、周辺の村々から米などを持ち込み、また藩の倉庫を襲って米や鉄砲、弾薬も運び入れ、城の普請もして籠城に備えました。
籠城後の戦闘は3カ月間続きました。
翌年の1月1日、幕府軍の総大将(上使)として江戸から派遣されていた板倉重正(いたくらしげまさ)が総攻撃を命じましたが、あえなく失敗し、板倉自身も討ち死にしてしまいました。
板倉重正の墓(原城内)
島原半島の乱が拡大しているとの報を受けた幕府が、老中の松平信綱を第二の上使として決定し、現地に向かわせていたことから、板倉重正が十分な勝算もないのに功を焦って総攻撃したためとされています。
石垣が壊されているところも数多くあります
幕府軍は籠城戦に持ち込み、一揆勢の食料や弾薬がつきてきた二月に総攻撃をしかけました。
この一揆は、絵師の山田右衛門作(やまだえもさく)一人を除き、天草四郎を含めて籠城していた者全員が死亡したことで終わりを告げることになります。
山田右衛門作が描いたとされる天草四郎陣中旗
国指定重要文化財(天草キリシタン館)
17世紀に描かれたとされる原城包囲図(作者不詳)
籠城戦では、幕府の要請を受けたオランダの軍艦が原城沖に回航されてきて砲撃を加えました。
包囲図の下側に、西洋式帆船(軍艦)2隻が描かれています。
そのため、精神的な支えとなってくれるはずだったキリスト教国の軍艦に攻撃されたことで、一揆勢に含まれていたキリシタンは大きな衝撃を受けたともいわれています。
原城の北西側をのぞく三方は有明海に面し、切り立った断崖になっているため、原城は自然の地形を利用した要塞になっています。
海に面した本丸の下は切り立った断崖で、現在(2018年)も崩落防止の工事が行われています。
天草四郎の墓碑
この墓碑のすぐそばで、ふと足元を見ると、四つ葉のクローバーがありました。
特に探したわけではありませんが、本丸の入口付近でも見つけました。
写真の右上に、はっきりと四つ葉が見えます。
さらに、左の白い花の横に1つ、さらにその下にも「らしきもの」が2つ(?)あります。
四つ葉の発生率は、三つ葉の一万分の一ともいわれています。
ここは発見する確率が異様に高いような……
欧米では四つ葉のクローバーは十字架に見たてられることもあるそうです。
ちなみに四つ葉のクローバーは「幸福をもたらし、四つの葉はそれぞれ希望、誠実、愛情、幸運を象徴している」とされます。
信じるかどうかは「その人しだい」ですが、「信じる者は救われる」かもしれません。
原城からは有明海をへだてて天草諸島がまじかに展望できますが、両者の中間に、お椀をふせたような小さな島が見えます。
湯島(ゆしま)と呼ばれる周囲4キロほどの島です。
原城の本丸付近から見た湯島
湯島は、島原と天草の一揆勢があらかじめ打ち合わせをしたことから「談合島(だんごうじま)」とも呼ばれています。
この島の高台には。徳富蘇峰(とくとみそほう)の筆による「談合嶋之碑」があります。
蘇峰は「談合し人をしのんで たたずめば かすかにむせぶ みねの松風」という歌も詠んでいます。
原城での籠城=持久戦では、幕府軍と一揆勢との間で、矢に手紙を結びつけて飛ばす矢文の応酬などもあったようです。
一揆勢からの矢文には、蜂起した理由なども書かれていましたが、よく知られているものがこれです。
天地同根萬物一体 一切衆生不撰貴賤
てんちどうこん ばんぶついったい いっさいしゅじょう きせんをえらばず
漢字をながめているだけで、およその意味が分かるような気もしますが、
「天も地も根は同じで、この世のすべてのものは一つであり、生きとし生けるものに身分が高いとか低いとかの区別はない」という意味のようです。
関係する観光パンフレットの類には「士農工商の身分が厳格だった時代に、人はみな同じで貴賎(きせん)はなく平等だと説いているのは立派だ」と称賛しているものが多いのですが、現代の感覚とすぐに結びつけてしまうのは早計かもしれません。
というのは、前半の「天地同根萬物一体」は、禅宗などではよく知られた仏教用語であり、
「一切衆生」も仏教ではおなじみで、この後にふつうは「悉有仏性」(すべてに仏性がある)と続きます。
さらに「不撰貴賤」という言葉は、戦国武将の武田晴信(たけだはるのぶ。出家した後の法名は信玄)がまとめた武田家の分国法である「甲州法度(こうしゅうはっと)の第五十五条に「私がまとめたこの法度(はっと)に誤りがあれば身分を問わず教えるように」という趣旨の文章でも使われているからです。
原城跡(はらじょうあと)の関連情報が得られる現地の施設
■有馬キリシタン遺産記念館
Arima Christian Heritage Museum
所在地
〒859-2412
長崎県南島原市南有馬町乙1395
電話/ファックス:0957-85-3217
開館時間:午前9時~午後6時
休館日:木曜と年末年始(12月28日~1月3日)
入館料:一般300円
お楽しみいただけましたか? 立ち読みコーナーはここまでです。