『帆船物語』(滝沢昌二)立ち読みコーナー
目次
オーストロネシア語族
フェニキアと古代ギリシャ
ローマとバイキング、そしてハンザ同盟
鄭和の宝船
ガレー船からキャラック船へ
レパトン沖の海戦
スペイン無敵艦隊とオランダ東イン会社
カリブの海賊と英国東インド会社
黄金の陸地探索
テラオーストラリス
トラファルガーの海戦
捕鯨船
ビーグル号
難破船と燈台
木曜島ラガー
クリッパー
ヨットレース、そして小さな鰭
帆船の種類
オーストロネシア語族
紀元前三千年、台湾にすむ民族が、稲と黍をたずさえて南下した。
その民族の起源は、北方からきたモンゴール系といわれる。アウトリガー(舷外浮材)をつけたカヌー(りぬき丸木舟)にクラブクロゥ・セール(の鋏型帆)をあげて海をわたり、フィリッピンからインドネシア、マレー半島に住みついてゆき、以後、オーストロネシア(南島)語族と呼ばれる。
やがて、この稲作民族に膨張がおこり、太平洋へ乗りだしていった。紀元前千五百年にミクロネシア、前千三百年にはニューギニア島をのぞくメラネシア、前九百年にはポリネシアにたっした。
でも、東南アジアからポリネシアに至るまで、優に六百年をこえるので、それを「民族の膨張」とよぶのが適当な言葉かどうか分からない。あえて「膨張」という言葉を使うなら、さらに、紀元前五百年から二度目の膨張があった。前二百年、インド洋をわたってマダガスガル島にたっし、太平洋では、ポリネシアをへて紀元後十世紀にハワイへ、十一世紀にイースター島、十三世紀にはニュージーランドにいたる。
かくのごとく、太平洋とインド洋に移住地を広げていったが、優勢な先住民族のいるニューギニア島とかオーストラリアには、いくつかの例外をのぞいて水や食料をもとめて接触しても住みつくことはなかった。
ここにいう先住民族とは、七万年前、アフリカから北上し海岸線をつたって東南アジアへきた最初の現代人 Homo sapiensで、ユーラシア人に近く、背丈ひくく縮れ毛をもつ。その民族は、ニューギニア島に進出してパプア人となり、最後の氷河期末にあたる四万年前ごろ、まだ、ニューギニア島から陸つづきであったオーストラリアへわたって住みついたアボリジニーズとなる。
そうした先住民のいる地に稲作をたずさえて住みつこうとするなら水の便があるな地、ひいては狩猟採集に恵まれた地を求めることになり、当然、先住民との争いをまねく。それは、すでに定着民族のいた沖縄や九州とか、インドやセイロン、およびアラビア半島やアフリカ大陸の東海岸でも同じことであった。
民族の膨張にともない外洋へ乗りだすようになって、アウトリガー舟も大型になり、二隻を橋梁でつなぎあわせる双胴船もあらわれた。船体には、軟らかい材質ながら油性にとむテルハボク(オトギリソウ科の木で、マストウッドともよぶ)をつかい、アウトリガーにはコルク質の表皮をもつデイゴ(エリスリナ属)や軟らかい材質のブレッド・フルーツ(パンの木)などをもちいた。さらには、に厚板をあわせてい合わせるようにでむすんでをあげ、パティナッツ・ツリーの樹脂をもちいて水漏れをふせいだように、単純なりぬき丸木舟ではなくなってゆく。
帆には、弾力があって海水にもつよいパンダナスの葉でむマットをつかった。の繊維をりあわせてロープにし、ハイビスカスやハマヒルガオの繊維でやりあわせをつくった。
クラブクロゥ帆は、とも呼ばれるように二本の湾曲したの下端をでつなぎあわせ、の上部をひらいて、そのあいだにの鋏型になるようにいあわせた帆をりつける。には、軽くて柔軟性のある竹をつかった。の下端を船の前方に結びつけ、片方のの中ほどにりつけた棒でを押したてて支っかい、もう片方のに結びつけたロープをひいて帆に風をうける。この帆は、突っかい棒を操ることで前後左右へ振りむけることができ、横風をうけても進めるように船の操縦性にとむ。
九世紀、クラブクロゥ帆船は船体が大きくなるにともない、それまでのでつかうに代わって船尾を用いるようになる。クラブクロゥ帆も二組にしたり、をたて大きくつくったクラブクロゥ帆を吊りあげ、あるいはをつかって片方のを引き立てるように変わってゆく。双胴船の長さは三十メートルにおよび、住居性も向上してにおよぶ百人ほどをのせ、数トンの荷を積めるようになった。
最初に太平洋やインド洋へ出てゆくとき、真っ先に積みこんだのがの実で、緊急時の水と食料になった。かくて「東南アジアとインドが原産地であろう」とされるの木が、太平洋やインド洋は元より、地中海をへて大西洋にも広まっていった。
かように、オーストロネシア語族の膨張にともない広まったものは数しれない。
民族膨張の初期、船に積みこんだ主な物は、の実をはじめ、米、ブレッド・フルーツ、ヤム、タロ、ペーパーマルベリ、鶏、豚、犬などであった。
当初、太平洋の島々に持ちこまれた稲作は、どこにも定着しなかった。
太平洋の島々は、おおまかに言って北緯二十度から南緯二十度の間にあって熱帯サバンナの地にちかく、年間雨量も余り多くない。島も小さく、年間をとおして水のながれる川も少ない。まだまだ、貯水池をつくり水路を整備するまでに至らなかった。
稲は、必要なときに水を引入れないと、よく育たない。
米は、ほかの穀物にくらべて著しく生産性が高いので土中の栄養分を使いはたすのも早い。永年にわたって稲作をつづけようとするなら、随時、水をひきいれ、水に含まれる栄養分を補ってやらなければならない。さらに、水田に発生するアオコ(藍藻)が、を固定し肥料を提供してくれる。
肥料もいらずに永らく稲作がなされてきたのは、この水田耕作の効用による。
積極的に肥料を用いるようになるのは、日本など世界のうちでも早いほうで鎌倉時代(十二世紀)にはじまり、室町時代(十四世紀)には二毛作から二期作まで出来るようになった。ちょっと憶測に類するけれど、室町時代にできた『』にいつも出てくる「お爺さんは、山へシバ刈りに」のシバは、にする「柴」だけでなく、その多くは村の共有林にる下草の「芝」だったのではないだろうか。
下草刈りは、林を健全に保つうえで大切なだけでなく「刈り取った草を、田にきこんで肥料にする」といった目的があったのではないだろうか。もし、そうなら、お爺さんが、いつもいつも芝刈りにゆく訳があったことになる。
年老いたお爺さんにとって、手頃な労働であったろう。
紀元前千五百年、オーストロネシア語族が到着したマリアナ諸島など、最初の数年は米の収獲をできても永くは続かなかった。
一五二一年、フェルディナンド・マゼランは、地球一周の途中、東から太平洋をわたってグアム島をおとずれ、そこで稲作がなされているのを見出している。それは、二回目のオーストロネシア語族膨張のとき、新しい技法とかなどが伝えられたことによるのだろう。つづく十八世紀、スペインがグアム島をふくむマリアナ諸島を領有すると、鉄製農具と東南アジアからの黒牛(水牛)がもたらされた。それらによってで田をおこしてをきこんだりや水路をつくるのも容易になり、水田耕作が一気にすすんだ。米は、そのときスペインによって導入されたとともに島の主要食糧になった。
でも、メラネシアやポリネシアでは、ついに定着しなかった。
この「十八世紀になって、やっと鉄器がもたらされた」のは、東南アジアでも青銅器時代(紀元前四百年から紀元後一世紀)と重なるように鉄器時代に入っているが、鉄器を再生して農具とかなどを作りだすのような民間技術が育たなかったことによるのではないだろうか。それにあわせて、九世紀ごろからアラブ商人の進出をうけてオーストロネシア語族のインド洋交易が衰退するとともに、太平洋の島々との交流も途絶えてしまったからではないだろうか。
一方、マダガスカル島の稲作は、移住したときから定着し主要な食糧になった。それには、新しい技法(収穫のおわった田に刈り草やなどを敷きつめ、それらを燃やした後の柔らかくなった地に点々と穴をほじってをまく)だけでなく、島も大きく南北にのびる高い山脈にはさまれる中央高地に始まったので、水の便に恵まれたことによる。山脈をこえた島の西側は熱帯サバンナの地でありながら、島の東側は雨量二千ミリから三千五百ミリほどある熱帯多雨の地にあたる。
ヤムは、ひろくアフリカからアジア、アメリカが原産地とみなされ、このヤマイモ属には八百七十種が数えられる。種子で繁殖し、とくに紫ヤムとか東南アジア原産の大きな象足ヤムが太平洋の島々にもたらされた。タロは、サトイモ科に属し、インド南部と東南アジア、ニューギニア島が原産地で湿地にそだち、稲とともにオーストロネシア語族のゆくところに伝えられた。
マレー半島で栽培されていたブレッド・フル―ツ(パンの木)は、澱粉質がおおく、ミクロネシアからメラネシア、ポリネシアの島々に定着し、主要な食糧になった。それは科に属し、果物や木材としてだけでなく、その樹液を接着剤や船の水漏れをふせぐ材料にもちいた。また、ペーパーマルベリ(コウゾウ)も広められ、タパ編みとなる繊維作物になった。
パンダナスは、帆をあむ繊維をとりだし、その実を食糧にした。
灯油をとる木として太平洋の島々へ持ちこまれたのは、三十メートルにも育つキャンドルナッツ(ククイノキ科)の木で、油は、サポニンを含むので食用にはならず、灯油としてだけでなく外用薬やにつかわれた。
東南アジア原産のサゴは、その茎からをしとる。
性の薬物をふくむベテルナッツ(フィリピン原産)も、ひろく太平洋の島々に持ちだされて栽培された。刳りぬき舟(カヌー)をつくるテリハボクとかデイゴ、それに竹なども、オーストロネシア語族のゆく先々に植えられた。さらに、、ウコンなども持ちだされて移植されていった。
ちょっと特異なのは類で、オレンジ、ミカン、レモン、グレープフルーツ、ライム、ザボンは、その総てが東南アジアの原産種で、オーストロネシア語族によって持ちだされ、世界中の熱帯から温帯の地に広まった。
オーストロネシア語族の膨張によって広められたものに、かなり特異ながら現代でも重要な作物として、ニューギニア島原産のとバナナがある。
は、ニューギニア島で紀元前一万五千年から栽培されていた。
そこからオーストロネシア語族によって太平洋の島々にもたらされたが、ニューギニア島でも、そうであったように茎をかみ甘い汁を吸いとるとか穂の莟を火にあぶって食べる程度の利用であった。それでも、数少ない甘味として珍重された。
紀元前千二百年から千年にかけて東南アジアや中国南部に持ちこまれても、その糖分をもちいて酒をつくるとか、その程度の利用で、インドにわたって、初めてをつくるようになる。その品種は「黒い砂糖黍」とよばれ、前六百年ごろペルシャ商人の手をへて地中海沿岸へ伝わった。紀元後の十五世紀、西インド諸島が発見されると、コロンブス二回目の航海のとき、そこに持ちこまれてを生産する一大産業にそだってゆく。
砂糖黍は、ポリネシアの膨張とともに七世紀になってハワイにも持ちこまれた。幾つかの砂糖黍品種が持ちこまれたけれど、そこでも利用方法に大きな進展はなかったが栽培されつづけ、野生化する品種もあった。十八世紀末ごろハワイへきた白檀商人の中国人が、その砂糖黍に目をつけて品種改良にのりだし、ラナイ島で農場開発を手がけたけれど失敗して中国へ帰ってしまった。
しかし、島の人々によっての品種改良はつづけられた。
その結果、一八三五年、ウィリアム・フーバーが砂糖黍の品種をえらんでカウアイ島に農場をひらき、翌年、三・六トンのを生産すると、ハワイの砂糖黍産業は一気に開花した。産業が発展するにつれて労働者不足に直面し、一八五〇年代から一九三〇年代にかけて順次、中国、日本、朝鮮、フィリピンから労働者移民を延べにして三十三万人受けいれた。ハワイの唯一絶大な産業となり、現在、ハワイにおける栽培品種は名のあるものだけでも七十余種にのぼる。
しかし、一世紀半にわたって栄えたハワイの産業も、二十世紀末からブラジルやインドの生産が大きくのびだし、ついに、二〇一六年、終焉をむかえた。
沖縄では「一六二三年、インドの砂糖黍が中国をへてもたらされた」といい、精製度がひくく分量のおおい柔らかなをつくるようになった。甘味料として画期的な製品だったことにあわせて砂糖黍そのものが強風や水不足に強いこともあって、すぐ沖縄の主要作物になった。
沖縄の砂糖黍導入に前後して、オランダ東インド会社は、台湾統治時代(一六二四から六二年)、土地の砂糖黍に注目して大規模農場を開設し、年間千トンをこえる赤砂糖(brown sugar)を生産するようになった。
このことは、沖縄へ伝わった砂糖黍も台湾から来たことを示していそうで、その砂糖黍もインドから来た黒砂糖黍であったろう。
もう一つのバナナは、マレー半島とフィリピンにそれぞれ一種ずつ原産種があるけれど、ニューギニア島では、紀元前一万年のころから栽培されていた。そこから太平洋の島々や東南アジア、およびインド洋をわたってアフリカの地にもたらされた。台湾に持ちこまれたバナナは、後年、品種改良がすすみ、一八五〇年代、そこから持ちだされたバナナが英国のウィリアム・キャベンディッシュ卿に届けられた。そこの温室で栽培試験がくりかえされ、植物学者のジョセフ・パックストンが種名を「Musa cavendish」としたことから「キャベンディシュ・バナナ」と呼ばれる。
ここで「台湾から持ちだされた」という話に異説があり「中国本土の南部から」とか「モリーシャス諸島から」とも言われる。もし「台湾から」とするなら、オーストロネシア語族は、元の故郷に持ちかえって品種改良をしていたことになり、台湾やフィリピンは、それが元でキャベンディシュ種バナナの一大生産地になった。
そうした符合は面白いけれど、実際には、どうであったのか分からない。
ともあれ、キャベンディシュ卿の温室からカナリー諸島にうつされ、そこから東南アジアの地をふくめて方々の地に持ちだされ、フィジーにももたらされた。すると、すぐ、ポリネシアの島々にひろまり、そこから来たキャベンディシュ・バナナがオーストラリアでも栽培されるようになって今日にいたる。
一方、早くにアフリカへわたったバナナは、十五世紀、アフリカの西海岸で再発見された。それは、グロミッシェル種(Musa acuminata)とよばれ、カリブ海の地に導入されて砂糖黍とならぶ一大産業にそだった。
こうしてみると、オーストロネシア語族の膨張は、ただ、民族移動をもたらしただけでなく「多種多様な有用植物を広めた」という意味合いが大きい。
でも、そうした大昔に、何をもって大洋をわたるり所にしたのだろうか。
海辺に流れつく木の実とか渡り鳥が飛来するのをみて海の彼方にある陸地を想像し、おおきな夢をはぐくみ、冒険心をいたたせて乗りだしたのだろうか。
太平洋のマーシャル諸島に、紀元前千年ごろ使われた棒切れ海図(Stick Chart)というのがある。椰子の葉の中肋(条)を幾重にもあわせて結びかわし、所々に小さな貝や片をむすびつける。棒の曲がりぐあい、傾き、太さなどの違いが波やうねりの度合いとか方向をあらわし、貝やは島をしめす。この海図に太陽と星の位置をあわせ、潮のながれ、波、うねりの度合い、風向きと匂いで現在位置を推定する。この棒切れ海図では、距離を読みとることができず、ただ記憶を呼びもどす助けにされた。
はるばる太平洋へ乗りだし、あるいはインド洋をわたったのも、風をよみ潮の流れをさぐり、臭いや空気の肌触りにたよる航海だったらしい。棒切れ海図は、そうした事々を記録し「親から子へつたえる教材になった」といわれる。
フィリピンからミクロネシアを目指すには、赤道にそって東からくる北太平洋海流(北緯八度から二十度の間)がフィリピン諸島にあたって北上する黒潮を横切ってゆかなければならない。黒潮にのって横切りながら北上し、乗り切ったところで南下するという手もある。あるいは、モンスーンの季節にはいり、北西の風におされて楽に黒潮を横切ることもできたのではないだろうか。ミクロネシアからフィリピンへ戻るには、南下して北太平洋海流にのり、流れの向きが北に変わるところで流れを横切ってくればよい。
メラネシアへゆくには、フィリピン諸島の南端から南へくだって東へむかう赤道逆海流(北緯五度から八度)にはいり、すぐ、ニューギニア島の東側ぞいに南下してゆける。そこからポリネシアへゆくには、南緯二十度当たりまでくだって貿易風(東南風)のよわまる南半球の夏に東へむかうなら困難の少ない航海になるだろう。
そうした事々を体験によって知り、後継者に伝えていったらしい。
ラピタ文化における住まいは、湾内の潮がひくと干しあがるような浅瀬に竹やの葉をつかいマングロープ柱の高足家屋を建てた。日に二回、潮が満ち引きするたび、あらゆる汚物が流れさり、衛生管理上、まことに都合よい。
天然の浄化施設を持っているようなもので、それに手間暇がかからない。
フィリピンやインドネシアからメラネシアへむかうのに、もうひとつ、ニューギニア島西周り航路がある。ニューギニア島とオーストラリア大陸ケープ・ヨーク半島との間にあるトーレス海峡をぬけてゆくもので、民族の膨張とは、通常、一方向へ広がってゆくが、交易などで戻ってくる動きも、かなり、あったらしい。
トーレス諸島は、ながらく無人だったようで「いつからか、メラネシアからのオーストロネシア語族が住みつき、今日にいたる」とされる。近年、紀元前五百年代の住居跡が発見されているが、それが、現在のトーレス諸島人につながるのかどうかは分からない。十四世紀ごろ、メラネシアからポートモレスビーの一帯に移住したオーストロネシア語族の人々(モツ族)がいるので「トーレス諸島への移住もそのころであった」とみるのが妥当ではないだろうか。
トーレス諸島は百三十余島をかぞえ、現在、人の住むところは三十八島で、その幾つかは、ニューギニア島を目と鼻の先にする。永い間にパプア人との交流も多かったであろうが、トーレス諸島人は、躰も大きく褐色の肌をもち、パプア人やオーストラリア大陸のアボリジニーズと違い、どちらかと言うならポリネシア系の人にちかい。
十三世紀、マオリは、ポリネシアからニュージーランドへわたった。
りぬき丸木舟を双胴にしたて、帆を二枚たてる大型船をもちいた。の一本は真っ直ぐでをつかって引き立てられ、もう一本のは湾曲し、の型というよりも片側がふくらむ三角形にちかい帆をはる。
マオリのニュージーランド島到着と同時代か少しおくれて「マオリの一派がトーレス諸島についた」とするならけるのだが。
トーレス諸島人は、姓を同じにする一族ごとにトウテム信仰をもち、また、生まれたときからの養子縁組制度があって産みの親と養い親をもつ人がおおい。でも、れの風習はない。の木を植え、カサバ、タロ、ヤムなどを栽培し、ジュゴンや海亀を狩り、漁業を主な生業にした。
かつて、マオリもそうであったように、トーレス諸島人も、戦闘民族とか首狩り族ともよばれ、十人ほどの戦士が乗りくみ、両側にアウトリガーをつける細身で軽いカヌーをつかい、帆とをもちいた。
一七九二年、ウィリアム・ブライ艦長のプロビンス号がトーレス諸島にったとき、画家のジョージ・トビンによって描かれたトーレス諸島でつかわれるカヌーの絵がある。それによると、真っ直ぐな二本のは、の型でなく両端が開いたままで縦にながい長方形の帆をはる。に竹、帆にサゴの葉を編んでつかった。
カヌー材は、ニューギニア島からパプア湾に流れでる大フライ川流域から取りよせ、レッドシダーなどが用いられた。
こうしたトーレス海峡諸島人に唄われた詩がある。
われらは 船乗り
星をみて海をわたり
いをいで 水平線の彼方にある島をさぐり
潮と風をよみ、のりかをしる
これなど、まさに、オーストロネシア語族が大洋へ乗りだしてゆくときの気分を言いあらわしているのではないだろうか。
モツ族が住むようになったポートモレスビーの一帯は、典型的な熱帯サバンナの地で貿易風のふく乾季(五月から十月)にはいると雨がなく、おおくを農耕にたよるパプア人は、ほとんど住みついていなかったようである。
モツ族の人々は、ポートモレスビーの港があるフェアファックス湾内や付近の入江の岸辺に面する静かな浅瀬に高足の家を建ててすまう。
貿易風(東南風)が弱まりだす十月ごろ、ラカトイにきの深鍋、壺、皿などとか貝殻などをつんでパプア湾へむかう。パプア人は、オーストラリアのアボリジニーズと共に、古来、土器を持たない。貝殻は、大きなとかな宝貝、イモガイ、黒蝶介などで、ニューギニア高地で装飾品やステイタス・シンボルとなって貴ばれた。
ラカトイがめざす地は、ポートモレスビーから北西へ凡そ四百キロはなれるプラリ川三角州の一帯で、そこに住むパプア部族と交易をした。その地の人々は、自分たちで使うだけでなく、プラリ川にそって登ってゆき人口密度のたかいマゥントハーゲンやゴロカ(標高千五百メートルから三千メートル)へ運びあげて中継ぎ交易をした。
パプア湾をとりまく一帯は、年間雨量も五千ミリをこえる熱帯雨林の地で中央山脈(標高三千メートルから四千メートル)から川水がもたらす土砂もおおく、海辺にな地がひろがる。
ラカトイできたモツ族の人々は、その地で取引しサゴから採るとカヌー用の丸太をえて、十二月から一月にかけて季節風(北西風)が吹きだすと帰ってゆく。サゴのは、常備用食糧となり「いざ」というときの助けになった。
カヌー用の丸太は、直径一メートルほどあり軽くて柔らかな木ならよく、マメ科のクイラ(kwila, Intsia bijuga)とか南洋杉(アラウカリア科)などを手にいれた。もし、トーレス諸島人も手にしていたようにセンダン科のレッドシダー(Toona ciliata)だったなら、その材質の軽さ軟らかさ、それに加えて卓越したさと、にも侵されない耐久性をあわせて最高級のカヌーを造れたであろう。
このヒリと呼ばれる交易は、十五世紀ごろから始まり、一九五〇年代にいたって終わった。一九七〇年代、ポートモレスビーでヒリ交易を祭ってラカトイが造られることもあったが、通常、人々はアウトリガー付きの小型カヌーで漁業をする。そのとき使われる帆も、近代的というか廃物利用とでも言うべきか、米袋(この米は、二十世紀の初めからニューサウスウェルス州のリバリナ地方で生産され、ナイロン繊維織りの袋につめて販売される)を縫いあわせて使っていた。それなら、軽くて扱いやすくれても何らりないけれど、弱点は、熱帯のつよい陽射しに弱いことで、すぐ、ボロボロになった。
現在、ニューギニア島で栽培されるバナナは、発祥地であり、かつ、永らく栽培されつづけられてきただけのことがあって種類もおおい。種と品種の区別は不明ながら、異なる地味地相とか標高にともなう多様な気候に適するそれぞれの種があり、収穫季の異なる種をとりまぜ、連作のできない種などは他の作物と混合栽培される。
それでこそ、バナナは、人々を養う主要な食糧になりえた。
なかには料理用バナナというものもあってバーベキューのとき焼いて食べたことがあるけれど、などとは、一味ちがう風味があった。
メロンほどの大きさがあるパンノキの実は、でただけで試してみたけれど、これといった味がなく、そうした食べ方では、さして食欲をさそわない。きっと、で方にも味の付け方にも、一工夫があるのだろう。
クック艦長は、三度目の航海の一七七八年一月、ハワイにった。
リゾリューション号は三本マストのスループ型帆船で四六二トン、大砲十二門、乗員一一二人で、のディスカバリー号はバーク型改造のシップ型で二二九トン、大砲八門、乗員七十人であった。島の人は、二の容姿と天空にとどろく大砲の、贈物としての装飾品類におどろき、ロノ(Lono)神の化身ではないかと思い歓待した。
クック艦長たちは、そこで充分な休養をとり、北航路の探索に北へむかった。八月、ベーリング海峡をぬけ、北緯七十度点にたっして氷山にはばまれた。
季節待ちをすることにして、同年九月、ハワイへもどった。そこで一ヶ月をすごし、再度、出発したがリゾルーション号のマストが折れてケアラテクア湾へ引きかえした。年末になって、ディスカバリー号の砲術助手が病死し、そこの岸辺にした。ついで、島民の墓地にある木をってマストにした。
その振舞いにいたって、ハワイの島民はした。
まず「ロノ神の化身でも、死ぬのか。マストも折れたことだし」と不審を抱いているところに「なんだ、神聖なる墓地の木を盗みやがって」とする憤りがおこった。そうしたの陰には「二度もの滞在に、百八十人が消費する食糧は壮大な量にのぼった。おかげで食糧不足に落ちいるのではないだろうか」という心配ごとがあり、そこに「みたびのになった」という最悪な事情をかかえる。
かくて「ちはらうべし」となり、戦闘のすえ、クック艦長は命をおとした。
その一七七九年、画家のジョン・ウェバーがハワイの原住民があやつる船をえがいている。それは、カヌーの双胴船でクラブクロゥ帆をかかげる戦闘船であった。ニュージーランドへわたったマオリも弱小な先住民族をしたように、どうも、ポリネシアへ出ていったオーストロネシア語族は、身体も大きくなり、戦闘的な民族になったようである。そうした点でも、トーレス諸島人はポリネシア系につながるのだけれど。
もちろん、インド洋の交易は、その前から始まっていた。
スマトラ島の西端からベンガル湾の南端を西にわたってセイロンやインドの南端にいたり、紀元前二百年ごろになると、アラビア海をわたってアラビア半島からアフリカ東岸にたっした。
そのとき、持っていった物は、先にかかげた砂糖黍や、ベテルナッツ、類などの差し木や種子であり、ナツメグ、、インドネシア・シナモンなどの香料であった。それらに加えて台湾からの、中国からの青銅器類などもある。
ゆく先々から持ってかえった主な物は、ペルシャのガラス製品、インドの、スリランカのシナモンなどであった。
なかでも、紀元前二百年ごろ、ヒンズー教や仏教が東南アジアにひろまるとともにデカン高原産の需要がたかまり、貴重な交易品になった。オーストロネシア語族の航海者は、を持ちかえるだけでなく、種子も持ちかえって栽培の難しいとされるをインドネシアとフィリピンで育成し自然繁殖するまでに育てている。仏教は、すぐ、中国にも広まり、聖なる香とされるの交易も、どんどん伸びていった。
人は、この交易路を「シルクロード」に例えて「白檀海路」とよぶ。
でも、近年のウエブサイトにおけるウィキペディア(Wikipedia)によれば、
「紀元前千三百年代、オーストラネシア語族が、フィリピンとインドネシア原産種の白檀をインド半島南部に持ちこみ繁殖させた」
とされる。白檀の育成は難しく、まず、イネ科植物の根に半寄生し、ついで全面的に竹やの木の根に寄生して成長する。それに、サバンナ気候のけのよい地であることが求められる。
と言うわけで「オーストロネシア語族の香料交易者は、住みつくことをめざし、白檀の種子をもってデカン高原にはいった」とするなら、うなずける。白檀は、小鳥に実を啄まれ、糞とともに種子が落とされて繁殖する。ヒンズー教や仏教がおこって白檀の需要が高まる紀元前二百年代には、最初にデカン高原で種子をまき育成させてから千年余りも経過しているので「相当量の白檀が繁殖していた」と言えそうである。
となると、白檀は、オーストラリアに五種、ニューギニア島に一種、それぞれ種をちがえる原産種があり、インド半島の白檀をあわせて「典型的なゴンドワナ大陸の植物である」と思っていたが、ほぼ否定されることになった。
このゴンドワナ大陸説とは「二億年まえ、超大陸が、アフリカと南アメリカを初めとする四つの大陸に分裂し、一億年まえ、三つめ目の大陸がオーストラリアと南極大陸に分れ、六千五百万年まえに四つ目の大陸がマダガスカル島とインド半島に分れて現在にいたる」と言うものである。
その昔、インド半島のゴンドワナ地方からでる植物の化石がユーラシア大陸のものと丸っきり異なっており、大きな謎であった。この大陸分裂説が出るにおよんで「インド半島が、北にうごき、ユーラシア大陸に当たってヒマラヤ山脈を押しあげた」とし、分裂するまえの超大陸に「ゴンドワナ」の名をつけた。
この学説は、現在、かなりがあるものとされて研究調査がつづけられている。
オーストラリアをのせるオーストラリア地殻の北端にニューギニア島があり、東南部の外れにニュージーランドの半分(南島)がのっかる。ともに、隣りの地殻とぶっつかりあう地点なので高い山脈ができ、いまも火山活動があってニューイングランド島で黒曜石が採れることになる。
隣接する太平洋プレート(地殻)にのるハワイやポリネシアの島々にも、それぞれ種のちがう白檀があるので、ゴンドワナ大陸の植物と限定しなければ、ゴンドワナ大陸の片割れに入らないフィリピンやインドネシアに原産種の白檀があってもしくない。でも、広大な太平洋にぽつりぽつりとある島に、それぞれ種のちがう白檀が、どうして生育するようになったのだろうか。疑問は、広がるばかりである。
そうした地に、はたして、オーストロネシア語族が押しいり白檀を植える余地があったのだろうか。後年、いくら「白檀航路」と呼ばれるようになっても、紀元前千三百年もの昔に、はたして、白檀をデカン高原に植えつけるだけの価値があったのだろうか。製品に育つまで、二十年から三十年ほど待たなければならないのに。
しかも、デカン高原にオーストロネシア語族が住みついた形跡はみつからない。
やはり「デカン高原原産の白檀を持ちかえって、インドネシアやフィリピンに繁殖させた」と見る方が妥当ではないだろうか。
近年のウィキペディアでは、オーストラリアまでインド白檀(Santalum album)の原産地に含めているが、一九九三年版の Encyclopaedia Botanica(植物百科事典、オーストラリアにおける原産種と外来種への手引き書、著者 Frances Bodekin)によると、オーストラリアの原産種にインド白檀はない。
西オーストラリアの北部でニ十世紀末から世界に先駆けて、香油含有量が最もおおいインド白檀の種子をせて大規模植林をはじめた。かつて、インドへ大量に輸出した西オーストラリア産の白檀(S. acuminatun)にならい、ワトル(マメ科アカシア類)と木麻黄を宿主にもちいた。どちらも根に根粒菌を育てる木なので好い成果をあげ、近年、の出荷量で世界のトップにたつ。
このことから、なにか勘違いをして「オーストラリアも、インド白檀の原産地であった」と見なしたのではないだろうか。その、フィリピンやインドネシアに野生化したインド白檀があるのを知って、東南アジアからインドへという逆の流れにして捉えたのではないだろうか。オーストロネシア語族の物流活動からすると「さもありなん」と思えるけれど、やっぱり、それではがあわなくなる。
こうしたオーストロネシア語族による交易も、紀元後六一〇年、メッカにイスラム教がり、アラブ民族の躍進がおこると、徐々にインド洋から締めだされていった。
その七世紀、アラブの商人は、ダゥ(dhow)と呼ぶ船をつくってインド洋へ乗りだしてきた。ダゥは「いあわせ船」とも呼ばれるように、上下をあわせた胴板に穴をあけてでしばり、船の外殻をつくった。インドから求めたチークやココヤシの木材をつかい、やをぬって水漏れをふせいだ。さが求められるには、類から動物のまでふくめて有りとあらゆるものが使われた。
このとは、後年、油田を掘りあてた地に昔からきだしていたタール分のおおいアスファルトで、土ともよび塗料としてつかわれてきた。
この造船技法は、要するに、オーストロネシア語族がりぬき舟のを高めるときに使った手法であり、その方法でそのものを造ったことになる。帆も、の型帆ののようにへ吊りあげるに三角帆をらすものでを左右に振りむけることができ、船の大きさにあわせてを一本から三本にした。
アラブの船乗りは、北極星の傾度を測って緯度をわりだすカマル(に相当する)をもってインド洋にのりだした。ゆく先々で交易をし、算術、天文術、薬事などをつたえ、イスラム教の教えとともにメッカとバグダットの文化をもたらした。
二百トンほどある大型ダゥも造ったが、通常は、細身の船体で三十トンから四十トンほどあり、帆をつかいのぎ手を二十人から三十人ほどそろえた。それらぎ手は、そく、戦闘員になる。アラブの商人は、むかしからアフリカ沿岸で交易をしており、ときにはりまでするまがいの商人でもあった。イスラム教がって「われわれが、世を治めるのだ」とばかりに、ますます戦闘的になったというきもある。
オーストロネシア語族の商人は、この高度な文化を背におう戦闘的なアラブ商人に出くわして後退してゆき、十世紀ごろ、アラブ海から、そしてベンガル湾、ジャワ海、南シナ海にいたる白檀海路もアラブ商人の手にわたった。
これで、オーストロネシア語族の海洋活動も、ほぼ、終わりになる。
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