人生の書 - 考える力(6) ジェームズ・アレン

健康と体に対する心の影響
体は心の召使いである。意図して選択されたのか自動的に示されたのかを問わず、体は心の働きに従属する。よこしまな考えを命じられると、体はすぐに体調をくずし弱ってしまうし、喜びや美しい考えに命じられると、はつらつとし美しくなっていく。

病気と健康は、その人を取り巻く外的状況と同様に、心のあり方に根ざしている。病的な考えは病的な体となって自己表現される。恐怖は銃弾のようにあっというまに人を殺してしまうことが知られているし、緩慢ではあっても着実にたえず何千人もの人々がそれで死亡している。病気におびえて暮らしていれば病気になってしまう。心配ごとはすぐに体全体に現れるし、病気への扉が開かれたままになってしまう。不純な考えは、肉体的に耽溺していなくても、すぐに神経系を損なってしまう。

強くて純粋で幸福な考えは体に生命力と光輝をもたらす。体は繊細で柔軟な楽器であり、感銘を受けた考えにはすぐに反応するし、そうした習慣となっている考え方が、良くも悪くも、体に影響を与えるのだ。

あいまいな考えにひたっている限り、不純で毒された血液が体内を流れ続けることになる。清浄な心から清浄な生活や清浄な体が生み出される。汚れた心は、汚された生活や腐敗した体へとつながる。思考は行動や生活、兆候の前提としてあるので、泉を純粋にすれば、すべてが純粋になる。

食生活を変えても考え方を変える助けにはならない。人が自分の考えを純化すれば、もはや不純な食べ物を欲しなくなる。

クリーンな思考はクリーンな習慣を作る。いわゆる体を洗わない聖人は聖人ではない。心を強化し浄化する者には、悪性の病原菌を考慮する必要もない。

体を完全なものにするには、心を守ることだ。体を新しくするには、心を美しくすることだ。悪意やねたみ、失意、意気消沈した考えは体から健康と光輝と奪いとってしまう。不機嫌な顔は偶然にできるものではない。不機嫌な考えで作られるのだ。顔を損なってしまう皺は、愚行や激情、自尊心のためにきざみこまれる。

私は聡明で少女のように無邪気な九十六歳の女性を知っている。また、中年だが顔が歪んでしまった男性も知っている。一方は楽しくて明るい心性の結果だし、他方は激情と不満が作り出したものなのだ。

空気や日光が自由に自室に入りこめるようにしない限り、楽しく健康に良い住居を持つことはできない。喜びや善意、静穏な考えが心の中に自由に入れるようにしたことの結果としてのみ、強い体と明るく楽しく穏やかな表情が生まれてくるのだ。

老人の顔には感情によってできた皺がある。強くて純粋な心性による皺もあれば、激情にかられてきざみこまれた皺もある。それを区別できない人がいるだろうか? 正しく生きた人にとって、年を重ねるというのは、沈んでいく夕日のように平穏で落ち着いた、やさしく熟成していくことである。私は最近、死の床にある哲学者を見舞ったことがある。氏は年齢はともかくとして老けこんではいなかった。生前の生き方と同じように、心地よく穏やかに逝かれた。

体の悪いところを治すのに、明るい考え方にまさる医者はいない。苦悩や悲しみの影を消すのに、親切な心に比肩できるほど慰めになるものもない。たえず憎悪や冷笑、疑念、嫉妬に満ちた感情を抱えて暮らすことは、自分で作った幽閉の穴に閉じこめられるようなものだ。しかし、すべてをよい方に考え、万事に朗らかで、よい点を見つけようと根気強く学ぼうと心がけること――そのような利他的な思考こそ、まさに天国の門の入口へと導くものであり、すべての生き物に対して穏やかな心で日々暮らすことで、その心の持ち主は大いなる安らぎを得るだろう。

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