スナーク号の航海 (33) - ジャック・ロンドン著

この原稿を書いている時点で、ホノルルに知っている靴磨きが一人いる。アフリカ系アメリカ人だ。マクベイ氏がぼくに語ってくれたところによれば、まだ細菌検査が行われるようになるずっと前に、彼はハンセン病患者としてモロカイ島に送られてきたのだった。彼は病室でも血気盛んで、悪さばかりしていた。長い間、そういうちょっとしたいたずらが繰り返されていたのだが、ある日、彼は検査でハンセン病ではないと宣告されたのだ。

「なんとまあ!」 マクベイ氏は笑いだした。「ということは、君を厄介払いできるってことだ! 次の蒸気船で島を出してやろう。君は自由の身だ!」

しかし、この黒人は行きたがらなかった。すぐにハンセン病の末期段階にある老婦人と結婚し、衛生局に、病気の妻を介護するため引き続き滞在する許可を与えてくれるよう嘆願した。自分ほど妻の世話をやける者は他にいない、と泣きついたのだ。だが、衛生局の連中にとって、彼の魂胆はお見通しというわけで、彼は蒸気船に乗せられて自由の身となった。しかし、彼はモロカイ島に舞い戻った。モロカイ島の風下側に上陸すると、夜にまぎれてパリに入りこみ、居住地にある自宅にもぐりこんだのだ。彼は逮捕され、裁判で不法侵入のかどで有罪を宣告され、少額だが罰金も科せられ、蒸気船で退去させられた。こんど不法侵入したら罰金百ドルに加えて、ホノルルの刑務所行きだと警告された。というわけで、このたびマクベイ氏がホノルルにやってくると、この靴磨きは氏の靴を磨きながらこう言った。

「ねえ、旦那。オレにはあの楽しかった家がなくなっちまいましたよ。ああ、なつかしいなあ」 それから内緒話でもするように声を潜めて、こう言った。「ねえ、旦那。また戻れませんかね? 戻れるように手配してもらえませんか?」

彼はモロカイ島に九年も住んでいたのだが、それ以前もそれ以後も、島での暮らしほど楽しい時はなかったのだ。

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モロカイ島のカラウパパ村。背後のパリの断崖は標高二千フィートから四千フィート。

ハンセン病自体に対する不安については、ハンセン病患者も患者以外の人々も、居住地ではそういう気配は見せなかった。ハンセン病に対する激しい恐怖は、ハンセン病患者を見たことがない人々や、この病気について何も知らない人々の心の中にあるのだ。ワイキキのホテルで、ぼくが居住地を訪問する料金の支払をしていると、ある女性が心底驚いていた。話をすると、彼女は生まれも育ちもホノルルで、ハンセン病患者を自分の目で見たことがないのだ。アメリカ本土にいたぼくは、そうじゃない。米本土ではハンセン病患者の隔離はゆるくて、ぼくは大都市の通りで何度も患者を見たことがある。

ハンセン病は恐ろしいもので、それから逃れることはできないが、この病気や伝染性について、ぼくには多少なりとも知識があった。ハワイに滞在する残りの日々をどうすごそうかと考えていて、結核療養所を訪問するよりはモロカイ島ですごしてみようかと思ったのだ。米本土の都会や田舎の貧しい人々のための病院や外国の似たような施設では、モロカイ島で目撃するような光景を目にすることができるが、もっとひどい状態だ。残りの人生をモロカイ島で暮らすか、ロンドンのイーストエンドや、ニューヨークのイーストサイド、シカゴのストックヤード*で暮らすかを選択しなければならないとしたら、ぼくはちゅうちょせずモロカイ島を選ぶだろう。イーストエンドやイーストサイドのような堕落と貧困に満ちた土地で五年もすごすくらいなら、モロカイ島で一年をすごすほうがいい。

モロカイ島では、人々は楽しそうだ。そこで目撃した七月四日の祝日の様子を、ぼくは決して忘れない。朝六時、「身の毛もよだつ」人々が外に出てくる。着飾って(自分の所有する)馬やラバ、ロバにまたがり、居住地中を跳ねまわるのだ。二組のブラスバンドも出ていた。三、四十人ものパウを着た者たちもいた。すべてハワイ人の女性で、民族衣装を着こなしている。馬に乗るのもうまく、二、三馬ずつだったり集団だったりで駆けまわっている。午後、チャーミアンとぼくは審判席に立ち、乗馬の技術やパウを着た衣装に賞を贈呈した。周囲にいるのはすべてハンセン病患者で、頭や首や肩に花冠や花のリースをつけて楽しそうだ。丘の上や草原には派手に着飾った男女が見え隠れし、飾り立てた馬を走らせたり、着飾った騎手たちが歌ったり笑ったりしている。ぼくは審判台に立ち、こうした様子をすべて目撃したが、そのとき思い出したのはハバナのハンセン病の病院だ。そこには二百人ほどのハンセン病患者や囚人がいて、四方を壁に囲まれた場所で死ぬまで閉じこめられているのだ。ぼくは何千という土地を知っているが、ずっと住む場所を選ぶとなったら、モロカイ島にするだろう。夕方、ぼくらは患者の集会所の一つに行った。集まった聴衆を前にして、合唱団のコンテストがあった。夜になり、最後はダンスになった。ぼくはホノルルのスラム街に住むハワイ人を見たことがあるのだが、再検査のため居住地から連れてこられた患者たちが口をそろえて「モロカイ島に戻りたい!」と叫ぶ理由がよくわかる。

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モロカイ島のダミエンロード

 

[訳注*]
ロンドンのイーストエンド、ニューヨークのイーストサイド、シカゴのストックヤードには、現在と異なり、一部にスラム化した集落が集中し、犯罪や貧困の温床/代名詞とされていた。

ジャック・ロンドンの意図は、実態が知られず恐怖ばかりが先走り、先入観に満ちた扇情的な報道で世間からは地獄のように思われているハンセン病患者の隔離された居住地に実際に住んでみて、ありのままを伝えようというところにある。

現在では、ハンセン病をめぐる状況も大きく変化し、隔離政策についても問題のあることが知られているが、後出しじゃんけんのように現代の基準で断罪したりはせず、執筆当時の著者の意図を尊重し、できるだけ忠実に訳出している。

 

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