スナーク号の航海 (43) - ジャック・ロンドン著

ミズンセールを引きこみ、しっかりたたんだ。夜になると、風がなくなり、うねりだけが残っていたが、索具がマストに当たる嫌な音もしなくなり、空気を震わせる不気味な音もなくなった。だが、大きなメインセールはまだ張っていたし、ステイスルやジブ、フライングジブ*1も展開していたので、船がうねりでゆれるたびに、パタンパタンと音をたてた。満天の星だった。ぼくは幸運を祈って、ハーマンとは反対の方向に舵をいっぱいに切り、背中をもたれて星を見上げた。他に何もすることがない。広漠とした凪(なぎ)の海で揺れているだけの帆船の上では、何もすることがないのだ。

それから、ほほにかすかな風を感じたが、ほんとにかすかで、すぐに消えてしまった。が、次の風を感じ、さらに次の風が感じられ、ついには本物と思える風が吹き出した。スナーク号の帆がどれほどその風を感じたのかはわからないが、風を受けたのは間違いなくて、どうやら動き出した。というのも、羅針盤の針がゆっくり回転したからだ。実際に針がまわっているわけではない。羅針盤の針はアルコールで密閉された容器の中に浮かんだデリケートな装置で、地球の磁力にとらえられて動かないので、向きを変えたのはスナーク号の方だ。

というわけで、スナーク号は本来の進路に戻った。風の息が大きくなる。スナーク号は風の圧力を感じるようになり、実際に少しヒールした。頭上をちぎれ雲が流れていく。雲で星が見えなくなりはじめた。暗黒の壁のようなものがこっちに接近してきて最後の星が見えなくなってしまうと、この闇は手の届くいたるところにあるように感じられた。闇の方に顔を向けると、かすかに風が感じられる。その風はとぎれることがなくなり、ミズンセイルをたたんでいてよかったと思った。おっと! 今のは強かった! スナーク号は風下側の舷が海水をすくうほど傾き、太平洋の海水がどっと入りこんできた。突風が四、五回続き、ぼくはジブとフライングジブをおろそうかと思った。また海に生気がよみがえり、風はますます強く頻繁になり、空中にしぶきが舞うようになった。こうなると風上に向かおうとしても無理だ。暗黒の壁は腕を伸ばせば届くところにある。ぼくはそれを凝視し、どうしてもスナーク号に打ちつける風の強さを測ろうとせずにはいられなかった。風上には何か不吉な脅威と感じられるものがあり、ずっと長く見つめていればわかるのではないかと感じたのだ。無駄だった。突風と突風の合間に、ぼくは舵を離れて船室に通じるコンパニオンウェイまで走っていき、マッチで火をつけて気圧計を確認した。「29-90」を指していた。この繊細な計器では索具が低い音を立てている騒ぎまでは教えてくれない。舵に戻ったところで、次の突風が吹いてきた。これまでで一番強い風だ。とはいえ、横方向からの風なので、スナーク号は進路を保ったまま東進した。悪くはない。

ぼくが悩んでいたのはジブとフライングジブをどうするかだ。この帆をおろしたかった。そうすれば風にも対処しやすくなるし、危険も減る。風のうなりとともに、雨がパラパラと散弾銃のように降ってきた。総員を甲板に招集すべきだとは思ったのだが、次の瞬間には、すこし延期した。おそらく風はこれでやむだろうし、全員を起こしても無駄になりそうだったから、そのまま眠らせていた方がいいと思ったのだ。ぼくはスナーク号の進路を放棄し、闇から抜け出そうと暗闇とは真逆の方向に向けたが、風の音とともに豪雨がやってきた。それから、この暗闇をのぞき、すべてが平穏に戻った。全員を起こさなくてよかったと思った。

風がやんだと思ったら、波が高くなった。もう白波がたっている。船はコルクのように持ち上げられては放りだされる。そうして、闇の中から、それまでより強い風が激しく吹いてきた。風上方向の闇の中に何があるのか知っていさえしたら皆を招集して手を借りられたのに! スナーク号は嵐に遭遇していた。風下側の舷がますます海水をすくうようになった。風の音はいよいよ激しく大きくなった。こうなれば寝ている連中を起こすしかない。よし、総員を招集するぞと決意した。と、雨は激しくなったものの風は弱まったので、ぼくは招集をかけなかった。とはいえ、闇の中で風の咆哮を聞きながら一人ぼっちで舵を握っていると心細くなる。ストレスを受けている状態で、眠っている仲間のことを考えながら、この小さな世界の表面でまったく一人きりでいるというのは責任感のなせるわざだ。突風がさらに吹きつのり、海が荒れてくるにつれて、海水は手すりを乗りこえ、水しぶきがコクピットまで飛びこんでくる。さっきまでの責任感がひるむ。海水は体には奇妙に暖かく感じられたが、幽霊のようなリン光を貫いてたたきつけてくる。ぼくは縮帆するため総員を甲板に出てくるよう招集すべきなのだろう。連中をなぜ寝かせておくのか。こんな状況でも良心の呵責(かしゃく)にかられるのはバカだ。ぼくの理性は心の迷いに異議をとなえる。心が反論する、「あいつらは寝かせておいてやろうや」と。賛成。だが、その判断をくつがえすのも、ぼくの理性なのだ。理性はその判断をくつがえさせる。そうして、その命令をいよいよ出そうという間際になって、突風がやんでしまうのだ。現実のシーマンシップに体を休ませてやりたいという配慮が入る余地はない、とぼくは思慮深くも賢明な結論を出す。だが、次に突風が続いて来たときに呼ぼうという心の迷いに譲歩し、連中を招集することはしない。というわけで、結局のところ、吹きつのる強風にスナーク号が耐えられるか判断しながら、ぼくの理性も、もっと強い風が吹いたら招集しようと先のばしにしているのだ。

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シイラが釣れた

訳注
*1 帆船の艤装では、一口に帆(sail)といっても、時代によって船によって役割によってセール/セイル/スルのように表記が異なる場合があるが、どれが正しくどれが誤りというようなものではない。ここでは、一般的と思われる表現にしてある(写真は進水時のスナーク号)。
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(1) メインセイル(メインスル)、(2) ミズンセイル(ミズンスル)、(3)フライングジブ、(4) (ロアー)ジブ

スナーク号はガフリグ・ケッチで、二本のマストにつける帆に加えて、船首に三枚の帆を張ることができる(この写真では二枚に見えるが)。

ガフリグとは、マストにつけた縦帆が今風のヨットのように三角形ではなく四角形になっていて、上縁に斜桁(ガフ)がついている。その上部にも小さな帆(トップスル)を張ることができるようになっている。

というわけで、帆の数が多いので、基本的に一人や二人で操船するのは無理。

ちなみに、次の図では、左が約百年前の初版本の表紙に使用されていた絵
右がその元になった白黒写真(*1の写真はこれを説明用に加工したもの)
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