スナーク号の航海 (3) ジャック・ロンドン著

生きているというのは、それだけで成功した生活であり、成功とはその程度の鼻息のようなものだ。むずかしいことをやり遂げるというのは、厳しく大変な努力が必要とされる環境でうまく調整できたということだし、それが困難であればあるほど、成し遂げたときの満足感は大きくなる。要するに、成功とは、プールの上に突きだした飛び板から前方に飛び出して、体を後方に半回転ひねって頭から水中に飛びこむ者に与えられるものなのだ。いったん飛び板から離れてしまえば、環境はすぐに攻撃し厳しい罰を与えようとしてくるし、失敗すれば水面にたたきつけられてしまう。むろん、誰だってそんな罰を受けるようなリスクをおかす必要はない。揺れない地面の上で、夏の日差しを受けながら、快適で穏やかな環境の岸辺にいることはできる。飛び板から飛びこむ男は、しかし、そんな風に作られてはいないというだけのことである。空中ですばやく体をひねりながら、岸辺にいては体験できない瞬間を生きるということなのだ。

ぼく自身について言えば、土手に座って飛びこむ者を眺めているよりは、自分自身が飛びこむ側の人間でいたい。それがスナーク号を建造した理由だ。ぼくはそういう男なのだ。要するに、好きだから、というに尽きる。世界を周航するのは人生で大きな意味を持つ瞬間である。その瞬間をぼくにつきあって目撃してほしい。ここにいるぼくは、ヒトと呼ばれるちっぽけな動物にすぎない――ちょっとだけ元気があり、肉や血液、神経、腱、骨、脳で百六十七ポンド(約七十五キロ)の重さがあり、全身が柔らかくて敏感で傷つきやすく、誤りをおかすこともあるし壊れやすくもある存在である。ぼくが暴れ馬の鼻先を軽く手の甲で打ったりすれば、手の骨が折れてしまう。水中に五分間ももぐっていれば、おぼれてしまう。空中を二十フィート(約六メートル)も落下すると体がこわれてしまう。ぼくは体温のある生き物なので、ちょっと寒くなると、指や耳やつま先は凍傷で黒ずんで落ちてしまう。ちょっと高くなると、こんどは皮膚に水ぶくれができ、肉はけいれんし、皮がむけてしなびてしまう。さらに、もっと寒くなるか暑くなると、ぼくの生命と光は消えてしまう。ヘビにかまれて、ほんの一滴の毒が体内に入っただけで、ぼくは動けなくなる──永遠に動けなくなってしまう。ライフルの鉛の弾が頭に撃ちこまれれば、永遠の闇に包みこまれてしまう。

誤りをまぬがれることができず、こわれやすく、少し脈打っているゼリー状の生命──それが、ぼくのすべてだ。ぼく自身について言えば、偉大な自然の力というやつは──巨大な脅威、破壊という名のタイタンであり、ぼくが自分の足元で押しつぶしている砂粒ほどにも、ぼくに対して関心を抱かず、感傷的にならない怪物、破壊者たるギリシャ神話の巨神族なのだ。やつらはぼくにはまったく関心がないし、知りもしない。無意識で、無常で、モラルもない。サイクロンだったり、竜巻や雷光、豪雨であったり、潮汐による激流、津波、引き波、海上の竜巻、荒海、引き潮、渦巻きであったり、地震や火山、岩場の海岸に轟音とともに寄せてくる波であり、海に浮いている最大の船も乗りこえていく波であって人間など押しつぶすか海に押し流して死なせてしまう──こうした無慈悲な怪物どもは、人にはジャック・ロンドンと呼ばれ、自分では元気で優秀だと思いこんでいる、神経過敏で弱く、ちっぽけで傷つきやすい生き物のことなんか知っちゃいないのだ。

このような巨大で風が吹き荒れるタイタンの衝突する迷宮や大混乱の中を、警戒しながら通り抜けていくのがぼくなのだ。ぼくというちっぽけな生命体は、それに大喜びするのだ。ぼくという小さな生命は、巨神族を当惑させるか自分の役に立たせることに成功する限りは、自分が神になったような気がするし、嵐をものともせず神のように感じるのは快感である。脈を打ち限りある生命体にとって、自分を神のように感じるのは、あえて言わせてもらえば、神が自分を神だと感じているよりはるかに痛快なことなのだ。

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