スナーク号の航海 (50) - ジャック・ロンドン著

それから長い年月を経ているし、のびたブタを食するというようなことを目撃する機会はないだろうと思っていたのだが、少なくともぼくはすでに、形状は楕円で、奇妙な彫りこみがなされた、百年も前に二人の船長の血を飲むのに使われていた、マルケサス諸島の正真正銘本物のヒョウタンで作った椀を持っているのだ。この船長のうちの一人は卑劣なやつだった。ポンコツの捕鯨船を白いペンキで塗り直して、マルケサスの村長(むらおさ)に新艇として売りつけたのだ。その船長が船に乗って逃げてしまうと、その捕鯨船はすぐにばらばらになった。と、しばらくして、逃げた船長の船が、こともあろうに、その島で難破したのだ。マルケサスの村長は金の払い戻しとか値引きという概念は知らなかったが、本能的に正当な要求を行った。つまり、自然界における収支決算ともいうべき根源的な概念を持っていた。そのだました男を食って帳尻をあわせたのだ。

タイピーの夜明けは涼しい。ぼくらは、なりは小さいが言うことをきこうとしない雄馬にまたがって出発した。が、馬たちは背に乗せた弱々しい人間やすべりやすい大きな石、ぐらぐらする岩、大きく口をあけている渓谷には無関心で、前足で地面をかき、おたけびをあげ、互いにかみつきあって喧嘩しあった。道はバウの木が密生しているジャングルを抜けている古道につながっていた。道のどちら側にも、かつての集落跡があった。こんもり茂った草木ごしに、高さ六フィートから八フィート、幅と奥行きは何ヤードもありそうな頑丈に作られた石壁と石を積み上げた土台部分が見えた。大きな石を積み上げた土台の上に、かつて家が存在していたのだ。しかし、家も人間もいまはなくなってしまい、その石組みの土台には巨木が根を張ってジャングルを上から睥睨(へいげい)していた。こうした土台部分はパエパエと呼ばれている。メルヴィルは耳で聞いた通りにピーピスと書いている。

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熱帯――道徳というものが持ちこまれた後の世界

マルケサスに現在住んでいる世代には、こんなに大きな石を持ち上げて積み重ねていくエネルギーはない。そうしようという気もない。歩いてまわると、たくさんのパエパエがあったが、どれも使われていなかった。一度か二度、ぼくらが谷を上っていくにつれて、普通は大地に張りついたような小さな草ぶき小屋の上にのしかかるように堂々としたパエパエが見えてきたことがあった。大きさの比較でいえば、ケオプス*1のピラミッドの広大な土台の上に造られた投票ブースといったところだろうか。純粋なマルケサス人は減っているし、タイオハエの状況から判断すると、集落が消滅しないですんでいる理由の一つは、新しい血が注ぎこまれているからだ。純粋なマルケサス人の方が珍しい。誰もが混血のように見えるし、何十ものさまざまな人種の血がまじりあっているようだ。十九名の有能な働き手はすべてタイオハエで商売をしていて、ココナツの実を乾燥させたコプラを船に積みこむために集まっていた。イギリスやアメリカ、デンマーク、ドイツ、フランス、コルシカ島、スペイン、ポルトガル、中国、ハワイ、ポリネシア、タヒチ、イースター島といったところの人々の血が流れている。人の数より人種の数の方が多いし、そういう名残もあるといったところだ。人間は弱々しく、よろめき、あえいでいる。この温暖でおだやかな気候は――まさに地上の楽園というべきもので――極端な温度になることはなく、大気には芳香がただよい、オゾンを運んでくる南東の貿易風のおかげで汚染もされていない。だが、気管支ぜんそくや肺結核、結核が植物のように蔓延(まんえん)している。どこでも、わずかに残った草ぶき小屋からは、肺を悪くした苦しそうな咳や疲れきったうめき声が聞こえてくる。それ以外にもおそろしい病気も広がっているが、一番怖いのは肺をやられることだ。「奔馬性」と呼ばれる肺結核があるが、これはおそろしいもので、どんなに頑健な男でも、二ヶ月もすると、死装束を着たガイコツのようになってしまう。谷間の居住地で住人が死にたえたところでは、ゆたかな土壌はまた密林に戻るのだが、それが谷から谷へとそれが広がっていく。メルヴィルの時代には、ハパア(彼は八ッパーとつづっていた)には強くて好戦的な人々が住んでいた。それから一世代たっても二百人がいた。今は無人で、荒涼とした熱帯の荒野になっている。

ぼくらは谷を上へ上へとのぼって行った。ぼくらが乗った蹄鉄をつけていない馬は、いまにも崩れ落ちそうな小道を進んでいったが、この道は放棄されたパエパエやとどまるところを知らず拡大しているジャングルを出たり入ったりして続いていた。ハワイ以来おなじみの赤いマウンテンアップルが見えたので、先住民の一人に木に登ってとってもらった。すると、彼はさらにココナツの木に登った。ぼくはジャマイカやハワイでココナツの果汁を飲んだことがある。が、このマルケサスで飲むまで、こんなにうまいものだとは知らなかった。ところどころ、野生のライムやオレンジが実っていた──土地を耕して植えた人間よりもずっと長く荒野で生き続けている偉大な木々だ。

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ココナツの木立
訳注
*1 : ケオプスはギリシャ語。一般にはクフとして知られている古代エジプトの王。

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