スナーク号の航海 (56) - ジャック・ロンドン著

精神疾患の専門家の一人が、彼をターボル山の療養所に運んだ。彼が無害だとわかると、そこでは好きにさせてくれた。何を食べろとか指示されなかったので、彼は果物と木の実――それにオリーブオイルやピーナツバター、バナナを中心にした食事を再開した。体力が回復するにれて、自分の望む生活をしようと心に決めた。他の連中と同じように社会の慣習に従って暮らしていたら死んでしまうと思ったのだ。まだ死にたくはなかった。この自然人が誕生するにあたって、死の恐怖はもっとも強い要素の一つだった。生きるために、自然の産物と屋外と日光が必要だった。

オレゴン州の冬は自然に戻りたいと願う者には魅力的ではなかった。それで、ダーリングは適した地域を探した。自転車に乗り、太陽のふりそそぐ南をめざした。スタンフォード大学に一年在学した。ここで、裸に近い格好での受講を大学当局に認めてもらい、リスのいた森で学んだ、生きるための原則をできるだけ適用しながら勉強し、苦労しつつ自分の道を切り開いていった。好きな勉強方法は、大学の裏山に登り、服を脱いで草の上に寝そべり、日光浴しながら健康になると同時に知識の海に没入することだった。

しかし、カリフォルニア中部にも冬があり、自然人の適地探求はさらに進められた。彼はロサンゼルスや南カリフォルニアもためしてみたが、何度か逮捕され、精神鑑定を受けさせられた。というのも、彼の生き方は同時代の人々の暮らし方とはまったく違っていたからだ。彼はハワイにも行ってみたが、そこでは精神異常扱いはされなかったものの、強制退去させられた。正確には強制退去ではなかった。刑務所に一年もぶちこまれる可能性もあったのだ。彼らは彼に自分で選択するようにと言った。刑務所に入るというのは、野外で日光をあびたいと願っているこの自然人にとっては死ぬも同然だったので退去を選んだのだ。ハワイの当局を責めることはできない。ダーリングは好ましからざる国民だった。協調性のない者は好ましくない、というわけだ。異議を唱えるべきは、ダーリングが素朴な生活という自分の哲学で行った範囲で、好ましからざる人物というハワイ当局の彼に対する裁定の正当性だ。

というわけで、ダーリングは自然な生活にふさわしいだけでなく、自分が好ましからざる人物とされないような土地を探し求めた。そしてそれをタヒチに見つけた。楽園中の楽園。噂通りの楽園で、そこで自分の思うとおりに暮らしたのだった。身につけるものといえば腰巻と袖のない漁網でこしらえたシャツだけだ。裸になった体重は百六十五ポンド(約七十五キロ)。健康状態は申し分ない。一時は駄目になったと思われた視力もすばらしくなっている。現実に三度の肺炎で痛めつけられた肺が回復しただけでなく、以前よりも強靱になった。

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自然人の農園。左がジャック・ロンドン

ぼくは、彼と話をしているときに彼が蚊を殺したときのことは決して忘れないだろう。この血を吸う虫が彼の背中で両肩の間にとまったのだ。彼は会話の流れを切らず、よどみなく話をしながら、握り締めた拳を背中の方にまわして肩の間にいた蚊をたたきつぶした。彼の体はバスドラムのような音をたてた。馬が厩舎の材木を蹴っているような音だった。

「アフリカのジャングルにいるゴリラは、一マイル先からでも聞こえるように胸をたたくんだ」と、彼はふいに言った。ぞっとするような音をさせて胸に入れた悪魔の入墨をたたいた。

ある日、彼はスナーク号の船室の壁にボクシングのグローブが吊るされているのに気づき、すぐに目を輝かせた。
「ボクシングやるのか?」と、ぼくは訊いた。
「スタンフォード時代はボクシングを教えてたんだぜ」という返事だった。

ぼくらはすぐに裸になって、グローブをはめた。バン! ゴリラのような長い腕が一閃し、グローブがぼくの鼻に当たった。ドス! 彼が姿勢を低くして、ぼくの側頭部にパンチを当てたので、あやうく横だおしになるところだった。その一発でできた腫れは一週間もひかなかった。ぼくは左のパンチをしゃがんでかわすと、彼の胃袋に右を一発お見舞いした。ものすごく効いた。ぼくの全体重をのせたパンチで、彼の上体は前かがみになった。ぼくはパンチをあびせながら、彼が倒れるだろうと思った。彼は破顔して言った。「いいパンチだ」 と、次の瞬間、ぼくは嵐のように繰り出されるフック、ジョルト、アッパーカット*1をあびせられ、防戦一方になった。が、チャンスとみるや、こっちもみぞおちめがけてパンチを繰り出した。当たった。自然人は両腕をだらんと下げて、あえぎながら、ふいに座りこんだ。

「大丈夫だと思うが」と、彼は言った。「ちょっと待った」
彼は三十秒もしないうちに立ち上がると、お返しとばかり、こっちのみぞおちにもフックをぶちこんでくれた。息がつまり、ぼくは両手をだらりと下げたまま、彼のときよりも少し早く崩れ落ちた。

こうして述べていることはすべて、ぼくがボクシングをした相手が八年前には九十ポンド(約四十キロ)そこそこの体重しかなく、医者や精神鑑定の専門家にオレゴン州ポートランドの部屋に閉じこめられたあわれなやつではなくなっていたということの証拠だ。アーネスト・ダーリングはここでの生活で見違えるように元気になり、その体験を経た体そのものが彼が書いた本というわけだった。

訳注
*1: ジャック・ロンドンはボクシングをテーマにした小説も何作か書いている。
フック=相手に対し、自分の体の外側から内側に向かうように打つパンチ。
ジョルト=ステップを踏んで体を動かしながら、踏み込んで打つパンチの総称。
アッパーカット=肘を曲げたまま突き上げるように打つパンチ。

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