スナーク号の航海(71) - ジャック・ロンドン著

こうした激しい自問自答が続いて頭はくらくらするし、ぼくは今日がいつなのかもわからなくなった。

スバのハーバーマスターが別れ際に言った忠告を思い出した。「東経では航海暦*1から前日の値をとるんだよ」

新しい考えが浮かんだ。ぼくは日曜と土曜の均時差を修正した。二つを別々に計算して結果を比べると、なんと○・四秒の差しかなかった。ぼくは生まれ変わった。堂々巡りの袋小路から抜け出す道を見つけたのだ。スナーク号はぼくの体や経験をかろうじて支えるほどの大きさしかない。〇・四秒を距離に換算すると一海里の十分の一にすぎず、わずか二百メートルほどではないか!*2

それから十分間ほどは幸せだった。偶然に航海士のための次のような箴言を知るまでは。

グリニッジ時の方が遅ければ
東経
グリニッジ時の方が早ければ
西経*3

ふむふむ! スナーク号の時間はグリニッジ時より遅くなっている。グリニッジで八時二十五分のとき、スナーク号の船上ではまだ八時九分だった。「グリニッジ時の方が早ければ西経」なのだ。西経にいることは間違いない。

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サモア諸島のサバイイ島の村娘

「ばっかじゃねえの!」と、ぼくの頭の固い方が叫んだ。「あんたは午前八時九分で、グリニッジは午後八時二十五分だろ」

「むろんそうだ」と、ぼくの理性が答える。「正確に言うと、午後八時二十五分は二十時二十五分だ。つまり、八時九分よりは確かに早い。議論の余地はない。西経にいるんだ」

すると、ぼくの頭の固い方が勝ち誇る。

「ぼくらはフィジーのスバから出帆したんじゃなかったっけ?」と。理性が同意する。「スバは東経だったろ?」 またも理性がうなづく。「そこからぼくらは西に向かったんだろ(つまり東経側の半球を進んだ)? とすれば、東経から出ているはずがない。ぼくらは東経にいるんだ」

「グリニッジ時の方が早ければ西経」と、ぼくの理性が繰り返す。「二十時二十五分は八時九分より進んでるわけだ」

「わかったわかった」と、ぼくは口論に割り込む。「まず太陽を観測しよう。話はそれからだ」

それから作業をすませ、割り出した経度は西経一八四度だった。

「ほらね」と、理性が鼻で笑う。

ぼくはあぜんとした。頭の固い方も同じで、しばらくは呆然としていた。そうしてやっと宣言した。

「西経一八四度なんてありえない、そんなの東経にもない。経度は一八〇度までだって知ってるだろ」

こうなると、頭の固い方は緊張に耐えきれずに倒れ、理性は間抜け同然に沈黙した。ぼくはといえば、希望を失い、目はうつろで、中国の海岸に向かって航海しているのか、それともパナマのダリエン湾に向かっているのだろうかと思い惑って歩きまわるしかなかった。

やがて自分の意識のどこからともなく、こう言うかすかな声が聞こえた。

「経度はぐるっとまわって三六〇度だ。三六〇度から西経一八四度を引くと、東経一七六度になるんじゃないか」

「単純すぎるだろ」と、頭が固く融通のきかない方が異議をとなえる。論理にたけた理性も抗議する。「そんなルールはない」

「ルールなんてくそ食らえだ!」と、ぼくは叫ぶ。「ぼくはここにいるじゃないか」

「自明のことさ」と、ぼくは後を継いだ。「西経一八四度は東経と四度だけ重複してるってことなんだ。それにぼくらはずっと東経にいたんだ。フィジーから出発したが、フィジーは東経だ。海図に現在位置を入れて、推測航法で証明してみせるさ」

脚注
*1: 航海暦(Nautical Almanac)については、日本では天文暦と呼ぶことが多い。天文略歴は日本近海用の簡略版。

*2: 一海里は1852メートル。ただし、○・四秒が1/10海里というのは、いろんな計算をしても合わないので、計算違いの可能性はある。ちなみに、子午線(経度)間の距離は赤道上が最大で、緯度が高くなるほど短くなるので、単に時差だけで距離は計算できない。

*3: 今はこういう言い方はあまりせず、西経か東経かは、グリニッジ時に対して単純にプラスかマイナスか(足すか引くか)と考えるのが一般的。規準は、自分のいるところではなく、あくまでもグリニッジにあるということを大前提にして計算すると迷わない。
日付の問題や東経か西経かということで悩むのは、経度がグリニッジを〇度にして東回りに東経、西回りに西経として目盛りをつけ、地球の反対側で東経一八〇度=西経一八〇度=日付変更線になっているため。
これが一方向に○度から三六○度とし、日付変更線=○度としておけば、話はぐっと簡単になる。

スナーク号の航海(70) - ジャック・ロンドン著

方位磁石は油断がならない。北以外のあらゆる方向を指して船乗りをだまそうとするのだ。だから空の方角や太陽の方向を知ろうとしても、所定の時間に所定の場所にあるべきものがなかったりする。これが太陽となると大問題で――少なくとも、ぼくの場合は問題になってしまった。自分が地球上のどこにいるのかを知ろうとすると、まず、きっかり同じ時間に太陽がどこにあるのかを知らなければならない。いわば太陽は人間にとってのタイムキーパーなのだが、これが時間通りに動いてくれないのだ。それを知ったとき、ぼくは呆然となり、宇宙は疑問だらけになってしまった。万有引力やエネルギー保存のような不変の法則すら信用できなくなり、妙ちくりんなことを目撃しても驚かないよう心づもりまでした。たとえば、方位磁石が間違った方向を指すと、太陽の軌道も定まらなくなってしまい、互いの関係が失われて意味がなくなってしまう。永久運動だって可能になるし、ぼくははじめてスナーク号に乗船したやり手の代理人から永久機関と評判のキーリーという発明家のモーターを買おうかなという気になったくらいだ。日の出と日の入りは年に三百六十五回ずつだが、地球は本当は一年に三百六十六回自転していると知ったときには、ぼくは自分が何者であるかすら疑ってかかるようになってしまった。

これが太陽の流儀なのだ。とても不規則で、人間が太陽の時間を記録する時計を考案するなど無理な話だ。太陽は加速したり減速したりするので、それに応じた時計を作ることはできない。太陽の運行は予定より早くなることもあれば遅くなることもある。天空を移動するときに、あるはずの位置にいようとして加速して速度制限を破ることもある。早くなりすぎても速度を落として調整したりはしないので、その結果として、やはり位置がずれてしまう。実際、太陽が偶然にも所定の位置にあるというのは、一年のうち四日だけだ。残りの三百六十一日は予定より早かったり遅かったりしている。太陽にくらべれば人間はきちんとしていて、正確な時を刻むための時計を作った。さらに、太陽が予定よりもどれくらい早いのか、あるいは遅れているのかまで計算した。誇り高い太陽の実際の位置と、控えめに言っても太陽が本来あるべき位置との差については、均時差*1と呼ばれている。海上で自船の位置を割り出そうとする航海士は、まずクロノメーターを見て太陽があるはずの場所をグリニッジ標準時に基づいて確認する。それから、その場所に均時差を適用し、太陽があるべきだがない場所を割り出す。この後者の位置を、他のいくつかの位置と合わせれば、海のないカンザス州出身の男でも現在地を知ることは可能になる。

スナーク号は六月六日土曜日にフィジーを出帆し、翌日の日曜には大海原に出て陸は見えなくなった。ぼくはクロノメーターで時間を調べて経度を計算し、子午線観測で太陽の高度から緯度を求めた。午前中にクロノメーターで時間を調べて太陽の位置を確認したが、この午前の天測では、太陽の高度は水平線から二十一度だった。天測暦を見て六月七日当日の太陽が一分二十六秒遅れていることと、一時間に十四・六七秒の割で遅れを取り戻しつつあるのを知った。つまり、クロノメーターでは、太陽の高度を測定した正確な時間はグリニッジで八時二十五分過ぎだったのだが、この日付から均時差を補正するのは小学生でもできる計算だ。だが、残念ながら、ぼくは小学生ですらなかった。正午にグリニッジで太陽が一分二十六秒遅れているのは明白だ。測定時間が午前十一時だったとすれば、太陽はそれから一分二十六秒プラス十四・六七秒遅れだったことになる。午前十時だとすれば、十四・六七秒の二倍を加えればよい。で、実際には午前八時二十五分だったので、三と二分の一かける十四・六七秒を加えなければならない。これははっきりしているのだが、仮に午前八時二十五分ではなく午後八時二十五分だったとすると、八と二分の一かける十四・六七秒を、今度は足すのではなく引かなければならない。また、正午であれば、太陽は予定の時間より一分二十六秒遅れていて、一時間に十四・六七秒ずつ挽回していくのであれば、午後八時二十五分には正午のときよりも本来の時間に近くなってくる。

ここまでは問題ない。が、クロノメーターの八時二十五分というのは午前なのか、それとも午後なのか? ぼくはスナーク号の時計を見た。八時九分を指していた。朝食を終えたばかりで午前のはずだ。だからスナーク号の船上では午前八時だった。クロノメーターの八時はグリニッジの時間に設定してあるので、スナーク号の八時とは別の八時のはずである。となると、どういう八時なのだろう? 今朝の八時ではありえないと、ぼくは論理的に考えた。となれば今日の夕方の八時か昨夜の八時にちがいない。

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スナーク号のボートに乗った南太平洋の美女たち

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南太平洋の住民
自分の頭が底なし沼に入りこんで混乱するのはこの時だ。ぼくらは東経にいる、とぼくは理性的に考える。だからグリニッジより時間は進んでいるはずだ。もしぼくらがグリニッジより遅れているのであれば、今日は昨日ということになる。グリニッジより早いのであれば、昨日が今日であり、昨日が今日ならば、いまの昼間は今日なのだろうか! ──それとも明日なのだろうか? そんなバカな! だが、これで正確なはずだ。ぼくは午前八時二十五分に太陽高度を測定した。グリニッジにいれば昨夜の夕食を終えたところのはずだ。

「では昨日に対して均時差を補正しよう」と、ぼくの論理脳が言った。
「だけど、今日は今日だぜ」と、ぼくの融通のきかない頭が主張する。「昨日じゃなくて今日に対して太陽を補正しなきゃ」
「だけど、今日は昨日なんだ」と、ぼくの論理脳が言い張る。
「わかってるさ、そんなこと」と、ぼくの固い頭が語を継ぐ。「もしぼくがグリニッジにいるのであれば、ぼくは昨日にいる。グリニッジでは奇妙なことが起こるんだ。だが、ぼくは自分が今ここにいるということを知っている。で、今日は六月七日だし、ぼくはここで太陽を補正しなければならない。今、今日、六月七日でね」
「ばかなことを!」と、ぼくの論理脳が反論した。「レッキーによれば──」
「レッキーの言うことなんか気にするなよ」と、ぼくの現実的な頭がさえぎる。「天測暦になんて書いてあるか見てみよう。天測暦は、今日六月七日には、太陽は一分二十六秒遅れており、一時間に十四・六七秒の割で追いついてくる。昨日の六月六日には太陽は一分三十六秒遅れで、一時間に十五・六六秒の割で追いあげていく。わかっただろ、今日の太陽を昨日の時間表で補正しようとするのはバカのすることだって」
「愚か者め!」
「間抜けめ!」
[脚注]

*1: 均時差-真太陽時(目に見える実際の太陽)と平均した計算上の太陽の時間との差。

スナーク号の航海 (68) - ジャック・ロンドン著

第十四章

アマチュア航海士

世の中にはたくさんの船長がいるし、信頼できる立派なキャプテンがいるのも承知している。が、スナーク号の船長となると話は別だ。ぼくの経験では、小型船で一人の船長の面倒をみるのは、赤ん坊二人の世話をするより手がかかる。むろん、これは想定の範囲だ。優秀な人材にはそれに応じた立場というものがあるし、一万五千トンの船を操船できるのに、スナーク号のような十トンそこそこの小舟の船長の仕事を選ぶなんて人がいるはずもない。スナーク号では海辺で航海士を募集したのだが、そんなことで集められる人材が役立たずなのは当たり前だ。二週間も大海原にある島をめがけて航海したあげく見つけられず、そのまま戻ってきて、目当ての島は住民もろとも沈んでしまったと報告したり、海の仕事につきたいという渇望だけが先走って仕事にありつく前にお払い箱になるような連中ばかりだ。

スナーク号では、これまでに三名の船長を雇った。神のご加護か、四人目はもういらない。最初の船長は年をとりすぎて、ブームジョー*1の寸法を船大工に伝えることもできなかった。もうろくしていて、まったく使いものにならず、バケツで海水をくんでスナーク号の甲板に流すよう乗組員に命じることもできなかった。錨泊していた十二日間というもの、熱帯の太陽の下でほったらかしになった甲板はかわききってしまい、新調したばかりの甲板をコーキングし直すのに百三十五ドルもかかった。二人目の船長は怒ってばかりいた。生まれながらの怒りん坊なのだ。「パパはいつも怒っている」とは、血のつながっていない息子の言だ。三人目の船長は意地が悪く、性格がねじ曲がっていた。真実は言わず正直でもなかった。フェアプレーや公平な扱いというものにはほど遠く、あやうくスナーク号をリングゴールド島で座礁させかけた。

この三人目で最後の船長を放逐したぼくは、また自分でやることにした。またもや素人ながら航海士に復帰したのだが、それはフィジー諸島のスバでだった。そのことについては、前に最初の船長の指揮下でサンフランシスコを出たときの話として書いたことがある。そのとき、スナーク号は海図上でのこととはいえ、いきなり大跳躍をしてしまったのだ。何が起きたのか理解できるまで大変だった。要するに、船長が現在位置を正確に測定できず、海図上で船を二千百海里も先に進めてしまっていたのだ。ぼくは航海術については何も知らなかったが、何時間かかけて本を読み、六分儀を三十分ほど使って練習しただけで、太陽の南中高度の観測でスナーク号の緯度と経度を知ることができた。等高度法*2という簡単な方法を使ったのだが、これは精度が落ちるし、安全な方法とも言えないのだが、ぼくの雇った船長はそれで航海しようとしていたのだ。その方法は避けるべきだとぼくに教えてくれる人がいるとすれば、それは彼しかいなかったのだが、そう教えてはくれなかった。ぼくはなんとかスナーク号でハワイまでたどりついたが、これは条件に恵まれていたのだ。太陽は北よりだが、ほぼ真上にあった。経度を確かめるためにクロノメーター*3を使う観測方法について、ぼくはそれまで聞いたことがなかった。いや、聞いたことはあったが、一番目の船長はそれについてはあいまいにしか語らなかったし、練習で一、二度やってみて、その後はやらなかったのだ。

フィジーで、自分のクロノメーターを別の二つのクロノメーターと比べる機会があった。二週間ほど前、サモアのパゴパゴで、ぼくはスナーク号のクロノメーターとアメリカの巡洋艦アナポリス号のクロノメーターを比べてみるよう船長に頼んだ。船長はやったと言ったが、むろんやってはいなかった。しかも、差はコンマ数秒にすぎなかったと抜かしたのだ。この時計はすばらしいと大げさに絶賛までした。また繰り返しになるが、船長がすばらしいと言ったのは、恥知らずの嘘っぱちだったのだ。その十四日後、ぼくはスバでオーストラリアの蒸気船アトゥア号のクロノメーターと比較したのだが、ぼくらの時計の方が三十一秒も進んでいた。三十一秒を地球の表面を円弧にみたてて距離に換算すると七と四分の一海里(約十三・五キロ)にもになる。つまり、もし夜中に西に向けて航海していたとして、夕方にクロノメーターを使って位置を確認してから、水平線の見えない夜間は船の進行方向と速度で推測するデッドレコニング法で現在位置を推定し、陸地から七マイル沖にいると思ったら、なぜかまさにその瞬間に岩礁にぶつかりそうになってしまった、ということなのだ。その後、ぼくは自分のクロノメーターをウーレイ船長のクロノメータと比べてみた。ウーレイ船長はスバの港長で、週に三度、正午に銃を撃って知らせてくれる。それによれば、ぼくのクロノメーターは五十九秒も進んでいた。つまり、西に航海していて岩礁から十五マイルも沖にいると思っていたら当の岩礁にぶつかってしまったという事態になるわけだ。

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タヒチの有名な「ブルームロード」

翻訳メモ
*1:ブームジョー-帆の下縁を張るための帆桁(ブーム)がマストと当たる受け部。
*2: 等高度法(Equal Altitudes)-GPSがない時代に六分儀を使用して太陽の南中高度を知るための簡易位置測定法の一つ。
*3: クロノメーターは、航海で位置を確認するために必要なきわめて正確な時計のこと。

————————————————————— 補足 ——-—————————————————
ヨットのような小型船では、太陽が真南にきたとき(その場所での正午)に太陽の水平線からの高さ(角度)と時間を測って緯度経度を割り出すことが多い(子午線高度緯度法)。

太陽が真南(子午線上)にきた瞬間を正確に知るのはむずかしいので、その少し前に太陽の高さを測っておき、真南を通過してまた同じ高さ(等高度)になった時間がわかれば、ちょうどその中間が正午ということになる(等高度法)。

太陽が子午線上(真南)に来たときがその場所での正午ということになるので、航海用の正確な時計(クロノメーター)でグリニッジ標準時(経度0度)との時間差がわかれば経度が計算できる(1時間=15度)。

緯度については太陽が赤道上にある春分と秋分の日は「緯度=90度-正午の太陽高度」になるが、太陽は季節により北や南に移動するのでその分を補正しなければならない。そのための暦や計算表もある。

六分儀と天文暦などを使って位置を計算する天測術については、帆船時代までさかのぼらなくても、ほんの少し前までヨットの航海では必須の知識だった(日本では漁船用の簡易的な方法が用意されていたし、一級小型船舶操縦士の実技試験にも六分儀を使って位置を出す課題が含まれていた)。この知識があるかないかで、航海記のおもしろさが違ってくるので、こちらでも、いずれ整理して紹介する予定。

スナーク号の航海 (67) - ジャック・ロンドン著

現地人の牧師が釣りがうまくいくよう祈りをはじめると、皆、かぶりものをとった。次に漁労長とでもいう立場のリーダーがカヌーを割り当てて場所を指示する。皆、カヌーに乗りこんで出発した。とはいえ、女たちは、ビハウラとチャーミアンを除けば、誰もカヌーには乗らなかった。かつて女たちも刺青を入れていたものだったが、この漁では女たちは後に残り、水中に並んで足で魚をとめる柵になる役割だ。

浜には大型のダブルカヌーが残されていた。ぼくらは自分たちの舟に乗った。カヌーの半分は風下の方へ漕いでいった。ぼくらは残りの半分と共に一マイルほど風上へ向かい、そこで岩礁に達した。両者の中央にリーダーのカヌーがあった。リーダーが立ち上がる。体格のいい老人で、手に旗を持っている。カヌーの位置を指示し、ホラ貝が吹きならされ、その合図で、二手に分かれたカヌーが整列した。準備が整うと、彼は旗を右に振った。そっち側のカヌーすべてで石が投げられ、一斉に水しぶきがあがった。投げた石をたぐりよせる。石が水面下に沈むか沈まないかのうちに、間髪を入れず、旗が左に振られた。すると左側の海面で、すべての石が一斉に海面を打った。それが繰り返される。投げては引き上げ、右で投げては左で投げる。旗が振られるたびに、礁湖の海面に長く白いしぶきの線が描かれていく。同時にパドルを漕いでカヌーを前へ進める。こっちでやっているのと同じことが、一マイル以上離れた反対側でも行われていた。

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漁師の一人

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囚人たちに漕がせているボラボラ島の憲兵

ぼくの乗った舟の舳先では、タイハイイがリーダーを凝視しつつ他の連中と調子をあわせて石を操っていた。一度、石がロープから外れて落ちた。その瞬間、タイハイイはそれを追って海に飛びこんだ。石が海底に達するかしないかのうちに拾い上げ、舟の横の海面に浮き上がった。近くのカヌーでも同じようなことが何度か起きるのを目撃したが、いずれも投げ手自身が石を追いかけて飛びこみ、すぐに回収して戻ってきた。

岩礁の端に近いラインの両側でカヌーのスピードが増した。それに対して、浜に近い方では速度を出していない。二手に分かれていたカヌーの列は少しずつ円形になっていく。すべては、油断なく目を光らせているリーダーの監督下で行われていた。そうしてできたカヌーの輪が縮まりはじめる。かわいそうに、驚いた魚たちは海面をざわつかせながら猛スピードで浜の方へ向かった。ゾウだって、同じような方法で、丈の高い草むらにしゃがんだり木の背後に隠れたりしているちっぽけな人間がたてる奇妙な物音に驚かされてジャングルから駆りてられるのだ。人が並んでつくった足の柵はすでにできあがっていた。礁湖の穏やかな海面に、女たちの頭が長い線を描いているのが見えた。浜辺の近くに残っている者もいたが、それは例外で、背の高い女ほど沖側に出る形で、ほとんど全員が首まで海中につかっていた。

カヌーの輪はさらに狭められ、カヌー同士が触れあうほどになった。そこで一呼吸あった。長いカヌーが浜から飛び出してきて、輪に沿って進んだ。懸命に漕いでいる。船尾で、一人の男がココナツの葉を編んだ長く連続した幕のようなものを投げ入れていく。カヌーはもう不要になったので、男たちも海に飛びこみ、魚が逃げないように足で柵をつくった。幕は幕であって網ではないので、魚は逃げようとすれば逃げられるはずだ。だからこそ足で幕を激しく動かし、両手では海面をたたいて白濁させ、奇声を上げる必要がある。輪が縮められていくにつれて、魚は大混乱に陥るのだ。

とはいえ、今回は海面上に飛び出したり足にぶつかってくる魚はいなかった。しまいに漁労長自身が輪の内側に飛びこみ、あちこちを探って歩いた。が、一匹の魚も浮いてはこず、飛び上がって砂浜に落ちるのもいなかった。一匹のイワシもいないし、小魚もいなければ、オタマジャクシのようなものすらいなかった。あの大漁祈願に何か不都合があったに違いない。あるいは誰かがぶつぶつ文句を言っていたように、風がいつものように斜め後ろから吹いてなかったので、魚はどこか別のところにいたのだろう。いずれにしても、追い立てるべき魚の姿がまったくないのだ。

「こんな失敗も五回に一回はあるよ」と、アリコットがぼくらをなぐさめた。

そう、ぼくらがボラボラ島までやってきたのは、この石の漁のためだったし、その五回のうちの一回に遭遇したというのが、ぼくらの運だったわけだ。事前福引のようなものだったら逆になっていたはずだ。悲観論を言っているのではないし、世の中はこうしたものだという開き直りでもない。これは、ただ単に一日努力して徒労に終わったときに多くの漁師が抱く感情にすぎない。

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ぼくらには、こういう魚は捕らえられなかった

スナーク号の航海 (66) - ジャック・ロンドン著

友人のタイハイイとビハウラがぼくらに敬意を表してこの漁に誘ってくれたのだが、迎えに来ると約束していた。甲板から呼ぶ声が聞こえたとき、ぼくらは船室に降りていた。すぐにコンパニオンウェイまで行って外を見たが、ぼくらが乗る予定のポリネシアの舟を見て圧倒された。横木でつながれている長い双胴のカヌーで、舟全体が花やゴールドの草で飾られているのだ。花の冠をつけた十二名の女たちがパドルを持ち、カヌーそれぞれの最後尾には舵をとる男がいた。みんな赤い腰巻姿で、金や赤、オレンジの花で飾りたてている。どこもかしこも花だらけ。花、花、花できりがない。すべてが色彩の爆発だった。カヌーの船首に渡した板の上ではタイハイイとビハウラが踊っていた。全員が声をそろえて歓迎の歌をうたってくれている。

彼らはスナーク号のまわりを三周してから、チャーミアンとぼくを乗せるためにスナーク号に横づけした。それから釣り場へと向かったが、五マイルほども風上にあり、そこまで漕いでいくのだ。「ボラボラではだれもが陽気だ」という格言めいたおのがソシエテ諸島全体にあるが、ぼくらはそれを実際に体験した。漕ぎながら、カヌーの歌、サメの歌、釣りの歌をうたう。漕ぎながら声をそろえてうたう。ときどき、マオ! という叫び声があがる。と、全員が必死に漕ぐ。マオとはサメのことで、この海のトラが出現すれば、住民たちはまっしぐらに浜へと戻っていく。ちっぽけなカヌーがひっくり返って食われる危険があるとわかっているからだ。むろん、この場合はサメが実際に出たのではなく、サメに追われているときのように必死に漕がせるためだ。「ホエ! ホエ!」という叫び声もあった。ホエは漕げという意味で、パドルはそれまでにもまして激しく海を泡立てた。

渡した板の上ではタイハイイとビハウラが踊っていたが、手拍子に歌やコーラスも加わった。パドルでカヌーの両舷をたたいてリズムをとったりもした。一人の少女がパドルを下に置き、プラットフォームに飛び乗ってフラダンスを踊った。踊りながら左右に体を揺らし、前屈みになり、ぼくらの頬に歓迎のキスをした。歌あるいは頌歌には宗教的なものもあり、それは特に美しく、男たちの深い低音に女たちのアルトやかすかなソプラノがまじって、オルガンを思わせるような音の組み合わせになった。実際に「カナカのオルガン」というのが、この地域の頌歌の別名でもある。その一方で、詠唱やバラードは非常に荒々しく、キリスト教が伝えられる前の時代からのものだ。

そんな風に歌ったり踊ったり漕いだりしながら、この陽気なポリネシア人たちはぼくらを釣りに連れて行ってくれたのだった。ボラボラ島を統治しているフランス人の憲兵も家族同伴で、自分の持つダブルカヌーでぼくらについてきた。漕いでいるのは囚人だ。このフランス人は憲兵で統治者というだけでなく、看守でもあるのだ。そして、この陽気な土地では、誰かが釣りにいくときは皆が行くのだった。ぼくらのまわりには、アウトリガーをつけたカヌーの一団がいた。あるポイントでは、大型の帆走カヌーが姿を現し、ぼくらに挨拶し、追い風を受け、優雅に帆走している。不安定なアウトリガー上でバランスを取りながら、若い三人の男たちが太鼓を激しくたたき、ぼくらに敬意を示してくれた。

次のポイントはそこからさらに一マイルほど先にあったが、そこでも出会いが用意されていた。そこにはウォレンとマーチンが乗ってきた船がいて注目を集めていた。ボラボラ島の人々は、その船の動力の仕組みが理解できないようだった。カヌーを砂浜に引き揚げ、全員が浜にあがってココナツを飲み、歌い、踊った。近くの住家から歩いてやってきた大勢の人々がそれに加わった。花の冠をかぶった女性たちが二人ずつ手をつないで砂浜を歩いてやってくるのが見えたが、とてもかわいらしかった。

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花の冠をかぶり、二人ずつ手をつないだ女性たち

「いつも大きな獲物がかかるんだ」と、ヨーロッパとアジアの血をひくアリコットが言った。「しまいには海が魚であふれるんだ。おもしろいよ。もちろん獲れた魚は全部あんたのものだ」
「全部?」と、ぼくはうめいた。スナーク号はすでに、気前よく贈ってもらった品々、カヌーで運んできてくれた果物、野菜、ブタ、ニワトリを満載しているのだ。
「そうだよ。最後の一匹まで」と、アリコットが答えた。「ほら、まわりを取り囲んでしまったら、あんたが客人の栄誉として、まず最初の一匹をモリで仕留めなきゃなんない。そういう習慣なんだ。それから、みんなが中に入って捕まえた魚を砂浜まで運ぶんだ。魚の山ができるよ。長老の一人が、それをすべてあんたらに捧げるという演説をすることになってる。全部もらう必要はない。あんたは立ち上がって自分がほしい魚を選び取り、残りは返すんだ。すると、みんなが、あんたは気前がいいってほめるわけさ」
「だけど、ぼくが全部もらうって言ったらどうなるんだ?」
「そんなことには決してならない」という返事が来た。「贈り贈られるっていうのが誰にも染みこんでいるから」

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漁の指揮をとるリーダー

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カヌーの輪が小さくなりはじめた

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人間の足で柵をつくる

スナーク号の航海(65) - ジャック・ロンドン著

第十三章

ボラボラの石を使った追いこみ漁

午前五時、ホラ貝が吹き鳴らされた。浜辺のいたるところから、昔の戦闘におけるトキの声のような不気味な音が聞こえてきた。漁師たちに起床し準備するよう促しているのだ。スナーク号にいたぼくらも目が覚めてしまった。うるさいくらいホラ貝が吹き鳴らされているのだから眠ってなんかいられない。ぼくらも石を使った追いこみ漁に出かけるのだが、ほとんど準備はしていなかった。

タウタイ・タオラというのが、この石を使った漁の名称だ。タウタイは「釣り道具」、タオラは「投げられた」という意味で、タウタイ・タオラという風に組み合わせると「石を使ったフィッシング」になる。投げる道具というのが石だからである。石を使ったフィッシングというのは釣りではなく、ウサギ狩りや牛追いのように、実際には魚を追い立てていく漁だ。ウサギ狩りや牛追いは追う方も追われる方も同じ地面にいるが、魚の追いこみ漁では、人間は息をするため海面上にいなければならないし、水中の魚を追い立てることになる。水深が百フィートあっても問題はない。人間は海面にいて魚を追いこんでいく。

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一ダースもの屈強な男たちが漕ぐ双胴のカヌー

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水に浮かぶと注目が集まる

具体的なやり方はこうだ。カヌーを百フィートから二百フィートずつ離して一列に並べる。カヌーの船首には男がいて、重さ数ポンドの石をふりかざしている。石には短いロープが結びつけてある。その石を海面にたたきつける。引き上げては、またたたきつける。何度も繰り返す。それぞれのカヌーの船尾には別の漕ぎ手がいて、カヌーは隊列を組み、同じペースで前進していく。カヌーの列が一、二マイル離れた先に想定したラインまで達すると、両端にいたカヌーが急いで円を描くように距離をせばめていき、海岸にまで達する。カヌーを並べてつくった円は海岸に向かって小さくなっていく。浜辺では、女たちが海に入り、列を作って立っている。足がずらりと並んで柵のようになり、逃げようとする魚を阻止するわけだ。円が十分に小さくなると同時に、一隻のカヌーが浜から飛び出し、ココナツの葉で作った間仕切りのようなものを海中に沈め、円に沿ってぐるぐるまわる。それが人の足でできた柵の効果を高めることになる。むろん、この漁はいつも、礁湖にある砂州の内側で行われる。

「スバラシイ」と、憲兵が合図と身振りで表現しながらフランス語で言った。小魚からサメまで、さまざまな大きさの何千という魚が囲いこまれることもある。追いこまれた魚は海上に飛び上がり、そのまま海岸の砂の上に落ちてくるというわけだ。

これはよくできた魚の捕獲方法の一つで、食糧確保のための退屈な漁というよりは、ちょっとした野外のお祭りのようだった。ボラボラでは、こんな漁を兼ねたお祭り騒ぎが月に一度の割で行われ、昔から受け継がれた風習になっている。これを創始した男については不明だ。ずっとこれを行ってきたという。しかし、針も網もヤリも使わない、こんな簡単な漁を誰が思いついたのだろうと思わずにはいられない。その男について一つだけわかることがある。保守的な部族の連中には、バカで伝統を重んじない、突飛な空想をする男だとみなされていたに違いないということだ。そいつが直面した困難は、手始めに一人か二人の資金提供者を見つけなければならない現代の発明家が直面する問題よりずっと大きかっただろう。大昔にこの漁を思いついた奴は、部族の連中の協力が得られなければ自分のアイディアを試すことすらできないので、まず自分に協力してくれるよう全員を説得しなければならなかったはずだ。頭の固い連中を集めて、この原始的な島で夜ごと寄り合いを開いても、皆はやつを愚か者とか奇人とか変人と呼び、この田舎者めとバカにしたんじゃなかろうか。自分のアイディアを実際にためしてみるのに必要な人間を確保するまでに、どれほど罵倒され、どれくらい苦労したかは、天のみぞ知るだ。とはいえ、その新しいやり方はうまくいった。試験に合格した──魚が捕れたのだ! そうなってみると、だれもが、最初からうまくいくと思っていたよと言いだしたりしたんだろうなということも想像がつく。

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ぼくらが乗る予定のポリネシアの舟

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石を投げる人

スナーク号の航海(64) - ジャック・ロンドン著

翌朝早く、タイハイイが船にやってきた。捕らえた新鮮な魚をヒモに通して持っている。その日の夕食に招待しにきてくれたのだ。食事に行く途中、ぼくらは頌歌(しょうか)がうたわれる家に立ち寄った。同じ顔ぶれの長老たちが、昨夜は見なかった若者や娘たちと一緒に歌をうたっていた。様子から判断すると、祭りの準備をしているようだった。果物や野菜が山のように積み上げられ、周囲にはココナツの繊維を編んだヒモをつけられたニワトリがたくさんいた。何曲か歌った後で、男の一人が立ち上がって話をした。その話はぼくらに向けられたもので、まったくちんぷんかんぷんだったが、山のように積み上げられた食べ物はぼくらと何か関係がある、ということだけはわかった。

「これぜんぶ私たちにくれるっていうの?」と、チャーミアンがささやいた。
「ありえない」と、ぼくも小声で返した。「くれる理由なんかないだろ? それに船には積む場所もないし、十分の一も食べきれやしない。あまらせても腐るだけだしな。祭に招待するって言ってくれてんだろ。いずれにしても、ぜんぶくれるなんてありえないよ」

とはいえ、ぼくらはまたも最高の歓待というものを受けることになった。話をしていた男は身振り手振りで、山のように積み上げられたすべての品々は間違えようもなく、ぼくらへの贈り物だと伝えたのだ。なんとも困ったことになった。寝室が一部屋しかないところに、友人が白いゾウをくれると言っているようなものだ。スナーク号は小さいし、すでにタハア島でもらった品々を満載しているのだ。ここでまたこんなにもらってしまうと、もうどうしようもなくなってしまう。ぼくらは赤面しながら、片言の言葉でマルルーと言った。タヒチ語でありがとうという意味だ。すばらしいという意味のヌイという言葉も繰り返して感謝の気持ちを伝えた。同時に、身振り手振りをまじえて、これほどの贈り物を受け取るわけにはいかないとも伝えたが、これは礼儀に反することだった。歌をうたっていた人々はがっかりした様子を見せた。明らかに裏切られたという感じだった。で、その晩、ぼくらはタイハイイの助けを借りて妥協し、ニワトリを一羽とバナナを一房、それにタロイモなどを少しだけもらうことにした。

とはいえ、歓待を逃れるすべはなかった。ぼくはすでに現地の人から一ダースものニワトリを買っていたのだが、翌日、その人が十三羽のニワトリを届けに来たとき、カヌーに果物を満載して持ってきてくれたのだ。フランス人の商店経営者はザクロをプレゼントしてくれたし、立派な馬も貸してくれた。憲兵も同様に大切にしている馬を貸してくれた。誰もが花を贈ってくれた。貯蔵庫に入りきらないため、スナーク号は花屋や八百屋の店先のような状態になった。いたるところ花だらけだ。頌歌(しょうか)の歌い手たちが乗船してくると、娘たちはぼくらに歓迎のキスをしてくれた。乗組員は船長から給仕にいたるまで、ボラボラの娘に心を奪われてしまった。タイハイイはぼくらのために大物釣りのプランを立ててくれた。漕ぎ手として一ダースもの屈強な男たちが乗った双胴のカヌーで出かけるのだ。魚が釣れなかったので、ほっとした。でなければ、スナーク号は係留したまま積み荷の重さで沈没しかねなかった。

そうやって日々がすぎていったが、歓迎はおさまる気配もなかった。出発する当日、カヌーが次から次へとやってきた。タイハイイは、キュウリやたくさんの実がついたパパイヤの若木を持ってきた。しかも、小さな双胴のカヌーに、ぼくのために釣り具一式を積んできてくれた。タハア島の時と同じように、果物や野菜もたっぷり持ってきた。ビハウラはチャーミアンにいろんな特別な贈り物を持ってきてくれた。絹綿の枕や扇、飾りマットなどだ。住民たちも果物や花やニワトリを運んできたが、ビハウラはそれに生きた子豚をプラスした。会ったか記憶もないような連中も船の手すりから身を乗り出して、釣り竿や釣り糸や真珠貝で作った釣り針をくれた。

スナーク号が帆をあげて礁湖を進んでいくとき、船尾には小舟を曳航していた。これはタイハイイ用ではなくて、ビハウラがタハア島に戻るためのものだ。その小舟を切りはなすと、東に向かって遠ざかっていった。スナーク号は船首を西に向けた。タイハイイはコクピットにひざまづき、無言で祈りをとなえている。頬を涙がつたっていた。一週間後、マーチンが機会を見つけて現像した写真をプリントし、何枚かをタイハイイに見せた。すると、この褐色の肌をしたポリネシアの男は、最愛のビハウラの顔写真に号泣した。

とはいえ、いかんせん歓迎でもらった品数が多すぎる! 大変な量だ。船上で作業しようとしても果物が通路をふさいでしまっている。どこもかしこも果物だらけで、スナーク号にも足船にもあふれていた。天幕をかぶせていたが、それを張っているロープに重みがかかり、きしんだ音をたてている。しかし、貿易風の吹く海面に出ると、積み荷が減り始めた。横揺れするたびに、バナナの房やココナツ、籠に入れたライムが振り落とされるのだ。金色の大量のライムが風下側の排水口まで流されていった。ヤムイモを入れた大きな籠が破れ、パイナップルやザクロはごろごろ転がっていた。ニワトリは自由の身になり、いたるところにいた。天幕の上で寝たり、前帆用のブームにとまって羽をばたばたさせたり鳴いたりしている。スピンネーカーを揚げるためのポールを止まり木にして器用にバランスをとっているのもいた。このニワトリたちは野鶏で、飛ぶのになれていた。つかまえようとすると、海上に飛び出し、ぐるりと旋回して船に戻ってくる。戻ってこないのもいた。そうした混乱のさなか、見張っているものが誰もいなくて自由に動けるようになった子豚が足をすべらせて海に落ちてしまった。

『よそ者が到着すると、誰もがわれさきに駆け寄って友人として自分の住まいに連れて行こうとする。そこでは地区の住民から最大級のもてなしを受ける。上座に座らされ最高のごちそうがふるまわれる』

スナーク号の航海(63) - ジャック・ロンドン著

カッターのところまで行く途中、タハアで唯一の白人男性に会った。ニューイングランド出身のジョージ・ルフキンだ! 八十六歳。本人によれば、四十九のときにゴールドラッシュでエルドラドに行ったり、カリフォルニアのツゥーレアの近くの牧場に短期滞在したそうだが、そうした短期の不在をのぞけば、この六十数年間をソシエテ諸島で過ごしてきたのだという。医者に余命三ヶ月と宣告されてから南太平洋に戻り、八十六歳になるまで生きてきたが、余命宣告した当の医者たちはとっくに死んじまったと含み笑いを浮かべた。彼もフィーフィーをわずらっていた。現地語で象皮病を指し、フェイフェイと発音する。この病気にかかったのは四半世紀前で、死ぬまで直ることはあるまい。親類縁者はいないのか、と聞いた。隣にいた六十歳ほどの快活な女性が娘だった。「この娘だけさ」と、彼は悲しげに言った。「娘の子は死んじまったし、ほかにはもう誰もいない」

カッターは小さくて、一本マストで前帆と主帆を持つスループ型の帆船でもあったが、タイハイイのカヌーと並べると巨大に見えた。礁湖に出ると、強風を伴うスコールに襲われた。カッターはスナーク号に比べると想像上の小人国の船のように小さかったが、どっしりとしていて、まったく安定感があった。乗組員の腕もよかった。タイハイイとビハウラも見送りにやってきた。ビハウラも腕のいい船乗りだとわかった。カッターは十分なバラストを積んでいたので安定していた。スコールに襲われたときもフルセールで帆走していたのだ。暗くなり始めていた。礁湖にはところどころサンゴが群生していて、ぼくらはその上を進んだ。スコールが激しくなってきたところで、タックしようと船首を風上に向け、サンゴの群生地を迂回した。コースも短縮されるし、海底まで一フィートもなかったからだ。反対舷に風を受ける前にカッターは「死んだ」状態になった。風に吹き倒されかけたのだ。ジブシートとメインシートを緩めると、船は起き上がったものの風に立ってしまった。風上を向いたところで、それ以上は向きを変えることができず、船の勢いがとまってしまった。三度試みて、そのつど横倒しになりかけた。シートを緩めて風を逃がしつつ、三度目にやっとのことで風軸をこえて反対舷で風を受けることができた。

次にタックするまでの間にすっかり暗くなった。そのころには、ぼくらはスナーク号の風上側に出ていた。スコールは居丈高な音を響かせていた。メインを下ろし、小さなジブだけにした。スナーク号は二本の錨をがっしりきかせていたが、カッターはそこを通り過ぎてしまい、もっと岸よりのサンゴに座礁してしまった。スナーク号から一番長いロープを繰り出してもらって一時間ほど四苦八苦したあげくにカッターを引き出し、無事にスナーク号の船尾につないだ。

その日、ぼくらはボラボラに向けて出帆したのだが、風が弱く、タイハイイとビハウラがぼくらと会う予定だったところまでエンジンをかけて機走した。サンゴ礁に囲まれた陸地まで来て友人たちを探したが見つからない。気配もなかった。
「待てないぜ」と、ぼくは言った。「この風じゃ暗くなるまでにボラボラには着けないだろうし、必要以上にガソリンは使いたくないしな」

そう、南太平洋ではガソリンが問題なのだ。次にいつ手に入るか、誰にもわからない。

と、そのとき、タイハイイが木々の間から姿を現して岸辺までやってきたのだ。シャツを脱ぎ、それを激しく振った。ビハウラはまだ用意ができていないようだった。乗船してきたタイハイイは、この陸地に沿って彼の家の対岸まで行かなければならないと伝えた。サンゴ礁を抜けるときには彼が舵を握った。すべて通り抜けるまで、要所でうまく導いてくれた。歓迎する叫び声が浜辺から聞こえてきた。ビハウラが何人かの村人の助けを得て二隻のカヌーに荷物を載せてやってきた。甲板には、ヤムイモや、タロイモ、フェイス、パンノキ、ココナツ、オレンジ、ライム、パイナップル、スイカ、アボカド、ザクロ、魚がところ狭しと積み上げられ、コッココッコと鳴いたり卵を産んだりするニワトリもいれば、いまにも屠殺されるんじゃないかと不安にかられてブーブーと鼻をならしている、生きたブタもいた。

月あかりの下で、ボラボラ島のリーフの間を通っている危険な航路を抜け、ヴァイタペ村の沖会いに投錨した。ビハウラは主婦らしく心配し、迎える準備が整う前にぼくらが到着してしまわないよう上陸をぎりぎりまで遅らせた。彼女とタイハイイがボートで小さな突堤まで行く間、静かな礁湖に、音楽や歌声が流れていた。ボラボラ島の連中はとても陽気だったが、ソシエテ諸島ではどこもそうだった。チャーミアンとぼくは海岸まで行って見物し、忘れ去られた墓所のそばにある村の共有草地で、花冠をつけたり花で飾り立てたりした若者や娘達が踊っているのを見た。髪には不思議な光を帯びた花を差し、それが月明かりに光ったりしていた。浜辺には、長さ七十フィートの巨大な楕円形をした草の家があり、そこで村の長老たちが賛美歌のような歌をうたっていた。彼らも陽気で花冠をつけており、ぼくらを迷える羊のように家の中へと迎え入れてくれた。

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ライアテアで、スナーク号を訪問してくれた人々

スナーク号の航海(62) - ジャック・ロンドン著

まず最初に気づいたのは、ベッドが斜めになったということだ。訪問客達は柔らかいマットを抱えてどこかへ行ってしまった。タイハイイとビハウラも同じように姿を消した。家は大きなワンルームのような状態になったが、それがぼくらに丸ごと提供され、家の主人達はどこか他の場所に寝に行ってしまった。つまり、この城がぼくらのために提供されたのだ。ここで言いたいのは、ぼくは世界のいろんな場所でいろんな人々から歓待された経験があるが、このタハア島の褐色の肌のカップルから受けた歓待に匹敵するものはなかった。なんでもほめると提供してくれるということや見返りを求めない気風とか、気前がいいとかを言っているのではない。そうではなくて、礼儀正しさだったり、思慮深さだったり、分別だったりという、相手を理解した上で示される心からの共感ということを言っているのだ。彼らは自分たちの道徳に従って義務としてやったのではなく、ぼくらがしてほしいと思っていることを理解した上で、それを行ってくれたのだ。しかも、その判断は当たっていた。出会って数日のうちに彼らが考えてやってくれた、こまごまとした多くのことをいちいち数え上げることはできないが、ぼくがこれまでに受けたもてなしや歓待はどれも、この二人のもてなしや歓待ほどではなかったし、それに匹敵するものでもなかった、とだけ言わせてもらえば十分だ。最もすばらしいと思えるのは、そうしたことが訓練されて身についたものではなく、複雑な社会の理想によるのでもなく、心からほとばしりでた飾り気のない自然な発露によるものだったということなのだ。

翌朝、ぼくら――つまりタイハイイ、チャーミアンとぼくは棺桶の形をしたカヌーで釣りに行った。このときは例の巨大な帆は持っていかなかった。この小さな舟で帆走と釣りを同時にはできないからだ。数マイル離れた、岩礁の内側にある海峡の深さ二十尋(ヒロ)ほどのところで、タイハイイは針に餌をつけた。餌はタコの切り身で、錘は石だ。タコはまだ生きていて、カヌーの底でくねくね動いている。投入した釣り糸は九本で、それぞれの釣り糸の端には竹の浮きがつけてあり、海面に浮かんでいる。魚がかかると、竹の一端が海中に引きづりこまれるが、当然のことながら竹は縦になって反対側が空中に突き出して、ピクピク動いたりはげしく揺れたりして、ぼくらに早く引き上げるよう促すのだ。竹の浮きが次々に合図を送ってくるので、パドルで漕ぎつつ、そのたびに歓声やら叫び声をあげて大急ぎで引き上げると、長さ二フィートから三フィートのきらきらと輝く見事な獲物が深いところから上がってきた。

東の方にあやしげな雨雲が立ち上り、貿易風帯の明るい空を着実にこちらに迫ってくる。ぼくらは家のあるところから三マイルほど風下側にいた。最初の突風が吹き、白波が立った。やがて雨も降りはじめた。熱帯特有のスコールで、空のあちらこちらに青空が見えているが、雨雲の下になると、いきなり土砂降りになった。チャーミアンは水着を着ていたが、ぼくはパジャマ姿だったし、タイハイイは腰巻きだけだった。浜ではビハウラが待っていて、母親が泥遊びしていたおてんばな幼い娘に対するように、チャーミアンを家の中に連れて行った。

服を着替えていると、カイカイを調理している乾いた煙が静かに立ち上ってきた。カイカイというのは「食べ物」とか「食べる」という意味のポリネシア語で、太平洋の広大な地域で幅広く使われているが、これがむしろ語源に近い形だろう。マルケサス諸島やラロトンガ、マナヒキ、ニウエ、ファカアフォ、トンガ、ニュージーランド、ヴァテではカイと言っていた。タヒチでは「食べる」はアムに変化し、ハワイやサモアではアイに、バウではカナに、ニウアではカイナに、ノンゴネではカカに、ニューカレドニアではキに変化していた。とはいえ、発音や表記が異なっていても、雨に濡れながらずっとパドルを漕いできた身には、この言葉の響きはここちよい。ぼくらはまたも上座に座らされてごちそう責めになり、キリンやラクダのイメージと違ってしまったことを悔いた。

スナーク号に戻ろうと準備していると、東の空がまたも暗くなり、別のスコールが襲ってきた。だが、今度は雨が少なくて風だけだった。何時間もうなりをあげてヤシの林を吹きすさび、もろい竹の住居を引きちぎり、吹き倒し、揺さぶっていった。外洋に面した岩礁では大海のうねりが押し寄せるたびに雷鳴のような轟音が響いた。砂州の内側の礁湖は保護されているのだが、白波が立ち、ハイハイイの腕を持ってしても、細いカヌーで進むことはできなかった。

スコールは日没までには通り過ぎたが、カヌーで戻るにはまだ波が高かった。それで、ぼくはタイハイイにライアテアまでカッターを出してくれる人を見つけてもらった。運賃は計二ドルと一チリ。チリは米国の通貨で九十セントに相当する。タイハイイとビハウラが大急ぎで用意した贈り物を運ぶのに村人の半数が必要だった。籠に入れた鶏、下ごしらえして緑の葉で包んだ魚、見事な金色のバナナの房、オレンジとライム、アリゲーターピア(バターフルーツとも呼ばれるアボカド)がこぼれんばかりに詰め込まれている葉で編んだ籠、ヤムイモ、タロイモ、ココナツの入った巨大な籠、最後に大量の木の枝や幹――これはスナーク号で使う薪用だった。

スナーク号の航海 (61) - ジャック・ロンドン著

ぼくらは夕食ができるまで、すずしいポーチで、ビハウラが編んだ最高のマットの上に座っていた。同時に村人たちにも会った。二、三人連れや集団でやって来たりしたが、握手をし、タヒチ語で「イオアラナ」と挨拶した。正確な発音はヨー・ラー・ナーだ。がっしりした体躯の男達は腰巻き姿で、シャツを着ていない者もいた。女達はそろってアブーと呼ばれる布で肩から足下までをおおっていた。優美なエプロンのようなものだ。見て悲しくなるのは、象皮病に苦しんでいる者が何人かいることだ。すばらしいプロポーションの魅力的な女性がいる。美人だが、片方の腕の太さがもう一方の腕の四倍、いや十二倍もあるのだ。彼女の横には六フィートの男が立っている。筋肉質で、よく日焼けし、申し分のない体をしているが、足やふくらはぎが象の足のようにむくんでいる。

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南太平洋の島の住居

南太平洋の象皮病の原因について確かなことはわからないようだ。汚染された水を飲んだからだという説もあるし、蚊にかまれて感染したという説もある。元々の素質に加えて環境に順化する過程でそうなったという第三の説もある。とはいえ、それをひどく気にかけている者はだれもいない。南太平洋では似たような病気が伝わっていることもありうる。南太平洋を航海する者にとっては現地の水を飲まなければならないときもあるし、蚊にさされずにすむこともある。とはいえ、そういうことをこわがって予防措置を講じても役には立たない。海で泳ごうとはだしでビーチを走れば、その少し前に象皮病の患者が歩いたところかもしれないのだ。自分の家にとじこもっていても、食卓に並ぶ新鮮な食物すべてが、肉や魚や鶏や野菜がそれぞれ汚染されている可能性だってある。パペーテの公設市場では、ハンセン病とわかっている患者二人が歩いていた。魚や果物、肉、野菜などの日常の食品がどういう経路でその市場に到着したのかは、神のみぞ知る、である。南太平洋の航海を楽しむ唯一の方法は、どういうことも無頓着で、心配したりせず、自分はまばゆいばかりの幸運の星の下に生まれてきたのだと、クリスチャンサイエンスの信者のように固く信じることだ。象皮病に苦しんでいる女性がココナツの果肉から果汁を素手でしぼり出すところを見たとしても、しぼりだす手のことは忘れて飲みほし、なんてうまいんだと感心することだ。さらに象皮病やハンセン病のような病気は接触感染するのではないらしいということも忘れないようにしよう。

異常に肥大し変形した手足を持つラロトンガ島の女性がぼくらに飲ませるココナツ・クリームを準備し、タイヘイイとビハウラが料理をしている調理場に行くのを目撃した。それは室内で乾物類の箱に載せて、ぼくらに供された。主人達はぼくらが食べ終わるのを待っていた。それから自分たちのテーブルを広げたが、それもぼくらに供されたのだった! ぼくらはたしかに歓待されていた。まず、見事な魚が出た。釣り上げるのに何時間もかかったもので、水で薄めたライムジュースにつけ込んであった。それからローストチキンが出た。おそろしく甘いココナツが二個、飲用に供された。イチゴのような風味で、口に入れるととろけるバナナもあったし、アメリカ人の先祖がプディングを作ろうとしたことを後悔するほどにうまいバナナのポイもあった。煮たヤムイモやタロイモ、大きすぎず小さすぎず切り分けた、多汁で赤い色をした調理バナナもあった。ぼくらはその豊富さにびっくりしたが、子ブタがまるまる一匹、かまどで焼かれて運ばれてきたのには仰天した。これはポリネシアで最高に贅沢な食事なのだ。その後にコーヒーが出された。黒くて、うまく、タハア島の丘で栽培された現地産のコーヒーだった。

ぼくはまたタイハイイの釣り道具に魅了された。釣りに行く約束をし、チャーミアンとぼくは今夜はここに泊まることにした。タイハイイがサモアの話を持ち出し、舟が小さいからというこちらの言い訳がまた彼を失望させたが、彼は顔には出さず笑顔を浮かべていた。ぼくらが次に行く予定にしていたのはボラボラ島だ。さほど遠くないが、ボラボラ島とライアテア島との間には小型船が就航していた。それでぼくはタイハイイに、スナーク号でボラボラ島まで行かないかと言ってみた。彼の妻がボラボラ生まれで、そこに実家もあるとわかったので、彼女も誘ってみた。すると彼女の方が、ぜひ実家に泊まるようにと、逆にぼくらを招待してくれた。その日は月曜だった。火曜に釣りに行き、ライアテアに戻ってくる。水曜にぼくらはタハア島まで来て、島から一マイルほどのところでタイハイイとビハウラを拾ってボラボラ島へ行くことにした。こうしたことすべてを決め、それ以外の話もした。だが、タイハイイが知っている英語は三語だけだし、チャーミアンとぼくが知っているタヒチ語は一ダースほどだ。それに、ぼくら四人全員が理解できるフランス語が一ダースくらいあった。むろん、こうした多言語が入り交じった会話はすらすらとは進まなかったが、メモ帳と鉛筆、チャーミアンがメモ帳の裏に画いた時計の文字盤と身振り手振りで、何とかうまくやれた。