立ち読み:『スティーヴンソンの欧州カヌー紀行』

※お断り
「はじめに」と「訳者あとがき」は全文をお読み頂けますが、『カヌー紀行』と『光と風と夢』については冒頭部分のみとなります。あらかじめご了承ください。

販売されている電子書籍の表示は縦書きで、必要に応じてルビがふってありますが、こちらでは横書きで、ルビは漢字の後に( )で示してあります。

目次


はじめに

ロバート・ルイス・スティーヴンソンは『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』などの作品で知られる十九世紀イギリスの作家で、晩年(というか、四十四歳で死亡しているので短すぎるその人生の後半)は、転地療養に適した土地を探した末に、南太平洋のサモアに妻と移り住み、その地で没しました。

この紀行は、二十代のスティーヴンソンが友人と二人で大陸(ヨーロッパ)にカヌーを持ちこみ、川や運河づたいに旅をした記録です。

未来の世界的ベストセラー作家がまだ無名だった若き日の、好奇心旺盛で、冒険やキャンプなどのアウトドア大好き青年だったころの、時代の最先端をいくセーリング・カヌーを用いた川旅で、よくある「行った、見た、面白かった」という観光ガイド的な体験記とは、やはり一味違います。

ヨーロッパの大きな川を上流に向かって必死に漕いだり、スリル満点の急流下りを楽しんだり、風がよければ帆走したりと、鉄道や馬車など普通の旅行手段ではとうてい味わえないスリルや緊張感や楽しみに満ちています。

ひとくちにカヌーといっても、カナディアンカヌーやシーカヤックなど、いろいろありますが、ここで使用されているのは、現代カヌー/カヤックの生みの親ジョン・マクレガーが考案して広めた、いわゆる「ロブロイ・カヌー」と呼ばれるもので、帆をつけてセーリングすることも可能なものです。

木製の堅牢な造りで、一人では持ち運べないほどの重量があるため、現代の感覚ではいわゆるディンギー(エンジンや船室のない、海水浴場によくある貸しボートに帆をつけたような小型ヨット)に近いかもしれません。ただし、カヤックと同じで人間が座るところ以外のデッキは甲板でおおわれているので、万一ひっくり返っても、また元に戻して旅を続けることができます。

スティーヴンソンの母国スコットランドやそれを含めた大英帝国もそうですが、ヨーロッパは船で航行可能な大小の河川とそれを結ぶ水路・運河が縦横に張りめぐらされているため、国境を越えて、ほとんどすべての地域を航行することが可能です。高低差があってもロック(水門)を利用すれば低地から高地へと登っていくこともできます。

本書の後半には、サモアに移住したスティーヴンソンの晩年を描いた中島敦の『光と風と夢』を掲載。

中島敦も転地療養をかねて西太平洋パラオの南洋庁に勤務した経験があります。
彼はこの作品で芥川賞の候補になったものの落選。太宰治や村上春樹も落選組であることはよく知られていますが、今では彼らは受賞作家や選考委員の多くをはるかにしのぐ存在になっていますね。

あとがきには『光と風と夢』の芥川賞の選評も掲載してあります。

 

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行

ロバート・ルイス・スティーヴンソン

アントワープからボームまで

ベルギー北部のアントワープのドックではちょっとした騒ぎになった。港湾作業の監督一人と荷役人たちが二隻のカヌーをかつぎ上げ、船着き場に向かって駆け出したものだから、おおぜいの子供たちが歓声をあげてそれを追ったのだ。

まずシガレット号が水しぶきをあげて水面に突進し、アレトゥサ号がすぐそれに続いた。ちょうどそこへ外輪式の蒸気船がやってきた。船上の男たちは大声で警告を発し、監督や荷役人たちも波止場から負けずにどなり返す。

とはいえ、ぼくらのカヌーはひと漕ぎふた漕ぎしただけで、軽々とスヘルデ川*の中央付近まで進んだ。行きかう蒸気船や港湾作業の人々、陸の喧騒はすぐにはるか後方に遠ざかった。

* スヘルデ川 フランス北部を源流とし、ベルギーのフランドル地方を流れて北海にそそぐ国際
河川。エスコー川(フランス語)とも呼ばれる。

太陽はきらきらと輝き、強い上げ潮が時速四マイル(時速約六・四キロ)で流れている。風は安定しているが、ときおり突風が吹いた。ぼくはこれまでカヌーで帆走した経験はない。正直、この大河のど真ん中で初めて経験するのだ。
不安はあった。この小さな帆に風を受けたらどうなるのだろう、と。

最初の本を出版したり結婚に踏み切ったりするのと同じで、未知の世界に乗り出していく気分だ。とはいえ、ぼく自身の不安はそう長くは続かなかった。五分もすると、ぼくは帆を操るロープをカヌーに結びつけてしまっていた。

これには自分でも少なからず驚いた。

むろんヨットで他の仲間と一緒にいるときには、帆を操るロープはいつも固定していたが、こんなにも小さくて転覆しやすいカヌーで、しかも、ときおり強風が吹くような状況で、同じやり方をする自分が意外だった。それまでの自分の人生観がひっくり返るような感じでもあった。

ロープを固定してさえおけば、両手があくので、タバコだって楽に吸える。が、とっさの対応が遅れてしまうので、ひっくり返るかもしれないという危険のあるときに、のんびりパイプを吹かしてみようという気になることは、これまで一度だってなかった。

で、「実際にやってみるまでは自分でもよくわからない」というのは、よくあることだ。だが、自分で思っている以上に自分が勇敢でしっかりしているとわかって自信が持てたという話は、あまり人の口からは聞こえてこない。

似たようなことは誰でも経験しているのかもしれないが、妙な自信を持ってしまうと、このさき自分自身に裏切られるかもしれないという不安があって、そういうことをあまり人に吹聴しないのではあるまいか。

もっと若いころに人生に自信を持たせてくれる人がいて、危険は遠くにあるときは大きく見えるが、人間の精神の善なるものはそう簡単には屈服しないし、いざという時に自分が自分を見捨てるなんてことは、めったにありはしないと教えてくれる人がいてくれたらよかったのにと、心から思う。

そういう人がいてくれたら、ぼくはどれほど救われていたことだろう。

とはいえ、文学では誰しもがセンチメンタルになるし、勇気を鼓舞するようなことはなかなか気恥ずかしくて書けるものではない。

川の上は快適だった。

一、二隻の干し草を積んだ荷船と行きあった。川の両岸にはアシや柳が生えていて、牛や灰色の年老いた馬がやってきた。土手ごしに頭を出してこちらを眺めている。

木々に囲まれた感じのよい村には活気のある造船所があり、芝生に囲まれた館も見える。

風に恵まれてスヘルデ川をさかのぼり、ロペル川までやってきた。さらに追い風を受けて先へと進むと、はるか遠く右岸にボームのレンガ工場が見えてくる。
左岸はまだ草の生い茂った田園地帯で、土手ぞいに並木が続いている。

あちこちに船着き場の階段があった。婦人が肘を膝に乗せて座っていたり、銀縁メガネをかけてステッキを持った老紳士がいたりもする。だが、ボームとそこのレンガ工場群に近づくにつれて、すすけた印象となり、みすぼらしくもなった。時計台のある大きな教会や川にかかる木製の橋のあたりまで来ると町の中心という感じになった。

ボームはすてきな場所というわけではなかった。唯一の取り柄は、住人の大多数が自分は英語を話せると思っていることだ。

が、実際はそうではない。話をしても、連中が何を言っているのか、よくわからなかった。

宿をとったオテル・デ・ラ・ナヴィガシオンについて言えば、この土地の悪いところが集約されたようなところだった。

通りに面して休憩室があり、床には砂がまいてある。一方の端にはバーがあった。別の休憩室はもっと暗く寒々としていて、飾りといえば空っぽの鳥かごと三色旗をつけた寄付金用の箱があるだけだ。

ぼくらはそこで愛想のない技師見習い三人に寡黙なセールスマンと一緒に食事をすることになった。ベルギーではよくあることだが、食事はなんの変哲もなかった。実際、国民は感じがよいのだが、その食事に人を喜ばせる何かを見つけることは、ぼくにはどうしてもできなかった。

ここの連中はたえず何か食べ物をつまんだり口に入れたりしている。およそ洗練されているとは言えず、フランス風ではあるが根はドイツで、どっちつかずの中途半端という感じだ。

鳥かごはきれいに掃除され飾りもつけられていた。が、鳴き声を聞かせていたはずの鳥の姿はない。角砂糖をはさむため押し広げられた二本の針金が残ったままになっていて、宴の後のようなもの悲しさがあった。

技師見習いたちはぼくらに声をかけようとはしなかったし、セールスマンにも何も言わず、声をひそめて話をするか、ガス灯の明かりにメガネを光らせながら、こっちをちらちら見ているだけだ。顔立ちはよいのに全員がメガネをかけていた。

このホテルには、イギリス人のメイドがいた。

国を出て長いため、いろんなおかしい外国の言いまわしや奇妙な外国の習慣が身についてしまっている。そうした変な流儀について、ここで書いておく必要はあるまい。

彼女は手慣れた様子で独特の表現を使ってぼくらに話しかけ、イギリスでは現在どうなっているのかと情報を求め、ぼくらがそれに答えると、親切にもそれをいちいち訂正してくれるのだった。とはいえ、ぼくらの相手は女なのだ。ぼくらが提供した情報は思ったほど無駄にはならないのかもしれない。女性はなんでも知りたがるし、教えてもらう場合でも自分の優越性は保とうとするものなのだから。

こんな状況では、それが賢明なやりかただし、そうする必要があるともいえる。

というのは、女が自分をほめていると知ると、たとえそれが道をよく知っているという程度のことであっても、男というものはすぐに調子にのって鼻の下を長く伸ばしたがるものだからだ。この手の図に乗った男をあしらうには、女の立場としては、たえず肘鉄をくらわせるようなことをしていくしかないわけだ。

男なんて、ハウ嬢やハーロー嬢*が述べているように「そんな侵入者」なのだ。

* ハウ嬢やハーロー嬢 英国の小説の祖と言われるサミュエル・リチャードソンの書簡体小説
『クラリッサ』の登場人物。

ぼくは女性の味方だ。幸せな結婚をした夫婦は別として、狩猟する女神の神話ほど美しいものはこの世に存在しないと思っている。

男が森で苦行しようとしても無駄だ。ぼくらは実際にそうした男を知っている。聖アントニウスもずっと前に同じことをやって悲惨な目にあったではないか。

しかし、女性には男の最高の求道者にもまさる、自分だけで満足できるという人々が確かに存在し、男の顔色をうかがうこともなく、寒冷の地で気高く生きていくことができるのだ。

ぼくは禁欲主義者というわけではないが、女性にこうした理想があることに感謝している。ただ一人をのぞいて、女性に自発的にキスをされたりすれば嬉しいものだが、ぼくとしてはそうしたこと以上に、こういった女性が存在している自体に感謝している。自立し独立してやっている人々を見ることほど勇気づけられるものはない。
スリムで愛らしい娘たちがダイアナ*の角笛の音に駆られて一晩中森の中を走りまわり、そうした木々や星あかりのように、男たちの熱い息吹やどたばた騒ぎにわずらわされず、オークの老木の間を縫って動きまわっているのを想像すると──ぼくにとって、もっと好ましい理想は他にもたくさんあるが──そういう様子を思い浮かべるだけで、ぼくの胸は高鳴ってくる。

* ダイアナ ローマ神話の月や狩猟の処女神ディアーナ。ギリシャ神話では月と貞潔と狩猟の
女神のアルテミスとなり、鹿の角と関係が深い。

そうした生き方は、たとえ失敗したとしても、なんと優美な失敗だろうか!

自分が後悔しないものを失ったところで、それは失ったことにはならない。それに──ここでぼくの内なる男がでてきてしまうのだが──こっちを軽蔑している相手をなんとか説き伏せていくのでなければ、どこに恋愛における喜びがあるというのか?

ウィレブルーク運河

翌朝、ぼくらはウィレブルーク運河に入った。雨が激しく降って寒かった。こんなに冷たい雨が降りそそいでいるのに、運河の水は紅茶を飲むのにちょうどよいくらいの温かさだったので、水面から蒸気が立ち上っている。

あいにくこんな状態だったが、出発するときの高揚した気分もあったし、パドルで漕ぐたびにカヌーが軽快に動いてくれるので、苦にはならなかった。雲が流れて太陽がまた顔を出すと、家に引きこもっていては感じられないくらいに、ぼくらの気分も高揚してきた。

風は音をたてるほど吹き、運河ぞいの木々が揺れている。葉もかたまりとなって揺れ動き、陽光に輝いたり影になったりしている。

目や耳にはセーリング日和という感じだったが、土手にはさまれた川面までおりてくる風は弱く、気まぐれに強く吹いたりした。ちゃんと帆走できるほどではなく、速くなったり遅くなったりムラがあった。かつて船乗りだったと思われるひょうきんな男がかわぞいの船を曳いて歩く道からぼくらの方に向かって「速いな、だが先は長いぞ」とフランス語で声をかけてきた。

(続く)

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光と風と夢(現代表記版)

中島敦

   一

一八八四年五月のある夜遅く、三十五歳(さい)のロバート・ルイス・スティーヴンソンは、南仏イエールのホテルで、突然、ひどい喀血(かっけつ)に襲われた。駆けつけた妻に向かって、彼は紙切れに鉛筆でこう書いて見せた。

「恐れることはない。これが死なら、楽なものだ。」

血が口中を塞(ふさ)いで、口がきけなかったのである。

それ以来、彼は健康地を求めて転々としなければならなくなった。南英の保養地ボーンマスでの三年の後、コロラドを試みては、という医者の言葉に従って、大西洋を渡った。

米国も思わしくなく、今度は南洋行が試みられた。

七十トンの縦帆船(スクーナー)は、マルケサス、パウモツ(ツアモツ)、タヒチ、ハワイ、ギルバートを経(へ)て一年半にわたる巡航の後、一八八九年の終わりにサモアのアピア港に着いた。海上の生活は快適で、島々の気候は申し分なかった。自ら「咳(せき)と骨にすぎない」というスティーヴンソンの身体も、まず小康を保つことができた。

彼はここで住んで見る気になり、アピア市外に四百エーカーばかりの土地を買い入れた。もちろん、まだここで一生を終えようなどと考えていたわけではない。現に、翌年の二月、買い入れた土地の開墾や建築をしばらく人手にゆだねて、自分はシドニーまで出かけて行った。そこで便船を待ち合わせて、いったん英国に帰るつもりだったのである。

しかし、彼は、やがて、在英の一友人に宛てて次のような手紙を書かねばならなかった。

「……実をいえば、私は、もはや一度しか英国に帰ることはないだろうと思っている。そしてその一度とは、死ぬ時であろう。熱帯においてのみ私はわずかに健康なのだ。亜熱帯のここ(ニュー・カレドニア)でさえ、私はすぐに風邪をひく。シドニーではとうとう喀血(かっけつ)をやってしまった。霧の深い英国へ帰るなど、今は思いも寄らぬ。……私は悲しんでいるだろうか? 英国にいる七、八人、米国にいる一人二人の友人と会えなくなること、それが辛いだけだ。それを別にすれば、むしろサモアの方が好ましい。海と島々と現地の人達と、島の生活と気候とが、私を本当に幸福にしてくれるだろう。私はこの流謫(るたく)を決して不幸とは考えない……。」

その年の十一月、彼はようやく健康を取り戻してサモアに帰った。彼の買い入れた地には、現地の大工の作った仮小舎ができていた。本建築は白人大工でなければできないのである。それができあがるまで、スティーヴンソンと彼の妻ファニーとは仮小舎に寝起きし、自ら現地の人達を監督して開墾にあたった。

そこはアピア市の南方三マイル、休火山ヴァエアの山腹で、五つの渓流と三つの瀑布(ばくふ)と、その他いくつかの峡谷断崖を含む六百フィートから千三百フィートにわたる高さの台地である。現地の人々はこの地をヴァイリマと呼んだ。五つの川の意である。

鬱蒼(うっそう)たる熱帯林や広大な南太平洋の眺望をもつこうした土地に、自分の力で一つ一つ生活の礎石を築いていくのは、スティーヴンソンにとって、子供の時の箱庭遊びに似た純粋な歓(よろこ)びであった。

自分の生活が自分の手によって最も直接に支えられていることの意識――その敷地に自分が一(ひと)杙(くい)を打ち込んだ家に住み、自分がのこぎりをもってその製造の手伝いをした椅子に掛け、自分が鍬(くわ)を入れた畠(はたけ)の野菜や果実をいつも食べていること――これは、幼時にはじめて自力で作り上げた手工品をテーブルの上に置いて眺めた時の新鮮な自尊心を蘇(よみがえ)らせてくれる。

この小舎を組み立てている丸木や板も、また、日々の食物も、みんな素性の知れたものであること――つまり、それらの木はことごとく自分の山から伐(き)り出され自分の目の前でかんなをかけられたものであり、それらの食物の出所も、みんなはっきり判(わか)っている(このオレンジはどの木からとった、このバナナはどこどこの畠(はたけ)のと)こと。これも、幼い頃母の作った料理でなければ安心して食べられなかったスティーヴンソンに、何か楽しい心(こころ)易(やす)さを与えるのであった。

彼は今ロビンソン・クルーソー、あるいはウォルト・ホイットマンの生活を実験しつつある。

「太陽と大地と生物とを愛し、富を軽蔑(けいべつ)し、乞う者には与え、白人文明をもって一つの大なる偏見と見なし、教育なき力あふるる人々と共に闊歩(かっぽ)し、明るい風と光との中で、労働に汗ばんだ皮膚の下に血液の循環を快く感じ、人に笑われまいとの懸念を忘れて、真に思うことのみを言い、真に欲することのみを行う。」

これが彼の新しい生活であった。

一八九〇年十二月×日

五時起床。美しい鳩(はと)色の明け方。それが徐々に明るい金色に変わろうとしている。はるか北方、森と街とのかなたに、鏡のような海が光る。ただし、環礁の外はあいかわらず怒濤(どとう)の飛沫(しぶき)が白く立っているらしい。耳をすませば、確かにその音が地鳴りのように聞えてくる。

六時少し前、朝食。オレンジ一個。卵二個。

食べながらベランダの下を見るともなく見ていると、直(す)ぐ下の畑のとうもろこしが二、三本、いやに揺れている。おや、と思って見ている中に、一本の茎が倒れたと思うと、葉の茂みの中に、すうっと隠れてしまった。すぐに降りて行って畑に入ると、仔豚が二匹、あわてて逃げ出した。

豚の悪戯(いたずら)にはまったく弱る。ヨーロッパの豚のような、文明のために去勢されてしまったものとは、全然違う。実に野性的で活力的でたくましく、美しいとさえ言っていいかも知れぬ。私は今まで豚は泳げぬものと思っていたが、どうして、南洋の豚は立派に泳ぐ。大きな黒牝(めす)豚(ぶた)が五百ヤードも泳いだのを、私は確かに見た。

彼らは怜悧(れいり)で、ココナットの実を日向(ひなた)に乾かして割る術(すべ)をも心得ている。獰猛(どうもう)なのになると、時に仔羊(こひつじ)を襲って食い殺したりする。ファニーの近頃は、毎日豚(ぶた)の取り締りに忙殺されているらしい。
六時から九時まで仕事。

一昨日以来の「南洋だより」の一章を書き上げる。直(す)ぐに草刈りに出る。
現地の若者等(ら)が四組に分れて畑仕事と道拓(ひら)きに従っている。斧(おの)の音。煙の匂い。ヘンリ・シメレの監督で、仕事は大いにはかどっているようだ。ヘンリは元来サヴァイイ島の酋(しゆう)長(ちよう)の息子なのだが、ヨーロッパのどこへ出しても恥ずかしくない立派な青年だ。

生け垣の中にクイクイ(あるいはツイツイ)の叢生(そうせい)している所を見つけて、退治にかかる。この草こそ我々の最大の敵だ。恐ろしく敏感な植物。狡猾(こうかつ)な知覚――風に揺れる他の草の葉が触れたときは何の反応も示さないのに、ほんの少しでも人間がさわると、たちまち葉を閉じてしまう。縮んではイタチのように噛(か)みつく植物、牡蠣(かき)が岩にくっつくように、根でもって執拗(しつよう)に土と他の植物の根とに、からみついている。クイクイを片づけてから、野生のライムにかかる。棘(とげ)と、弾力ある吸盤とに、だいぶ素手を傷められた。

十時半、ベランダからほら貝(ブウ)が響く。昼食――冷肉、アボカド、ビスケット、赤ワイン。

食後、詩をまとめようとしたが、うまくいかぬ。銀笛(フラジオレツト)を吹く。一時からまた外へ出てヴァイトリンガ河岸への径(みち)を開きにかかる。斧(おの)を手に、独りで密林にはいっていく。

頭上は、重なり合う巨木、巨木。その葉のすきまから時々白く、ほとんど銀の斑点のごとく光って見える空。

地上にも所々倒れた巨木が道を拒(こば)んでいる。よじのぼり、垂れ下がり、絡(から)みつき、わなを作るツタカズラ類の氾濫(はんらん)。総(ふさ)状に盛りあがる蘭(らん)類。毒々しい触手を伸ばしたシダ類。巨大なシラホシカイウ。汁気の多い稚木(わかぎ)の茎は、斧(おの)の一振りでサクリと気持よく切れるが、しなやかな古(ふる)枝(えだ)はなかなかうまく切れない。

静かだ。私の振る斧(おの)の音以外には何も聞えない。

豪華なこの緑の世界の、何という寂しさ!

白昼の大きな沈黙の、何という恐ろしさ!

突然遠くからある鈍い物音と、続いて、短い、甲高い笑い声とが聞えた。

ゾッと悪寒が背を走った。はじめの物音は、何かの木(こ)魂(だま)でもあろうか?
笑い声は鳥の声?

この辺の鳥は、妙に人間に似た叫びをするのだ。日没時のヴァエア山は、子供の喚声(かんせい)に似た、鋭い鳥どもの鳴き声で満たされる。しかし、今の声は、それとも少し違っている。結局、音の正体は判(わか)らずじまいであった。
帰途(きと)、ふと一つの作品の構想が浮んだ。

この密林を舞台としたメロドラマである。弾丸のように、そのの思いつきが(また、その中の情景の一つが)私を貫いたのだ。うまくまとまるかどうか分らないが、とにかく私はこの思いつきをしばらく頭の隅に暖めておこう。鶏が卵をかえす時のように。

五時、夕食、ビーフシチウ、焼バナナ、パイナップル入りクラレット。

食後、ヘンリに英語を教える。というよりも、サモア語との交換教授だ。ヘンリが毎日毎日、この憂鬱(ゆううつ)な夕方の勉学に、どうして堪えられるか、不思議でならぬ。今日は英語だが、明日は初等(しょとう)数学だ。享楽(きょうらく)的なポリネシア人の中でも特に陽気(ようき)なのが彼らサモア人だのに。サモア人は自ら強いることを好まない。彼らの好むのは、歌と踊りと美服(彼らは南海の伊達者(ダンディ)だ)と、水浴とカヴァ酒とだ。

それから、談笑と演説と、マランガ――これは、若者が大勢集まって村から村へと幾日も旅を続けて遊びまわること。訪ねられた村では必ず彼らをカヴァ酒や踊りで歓待しなければならないことになっている。

サモア人の底抜けの陽気(ようき)さは、彼らの国語に「借財」あるいは「借りる」という言葉のないことにも現れている。近頃使われているのはタヒティから借用した言葉だ。サモア人は元々、借りるなどという面倒なことはせずに、皆貰(もら)ってしまうのだから、従って、借りるという言葉もないのである。貰(もら)う――乞(こ)う――強請(ゆす)る、という言葉なら、実に沢山ある。貰(もら)うものの種類によって、――魚だとか、タロ芋だとか、亀だとか、むしろだとか、それによって「貰(もら)う」という言葉がいく通りにも区別されているのだ。もう一つののどかな例――奇妙な囚人服を着せられ道路工事に使役されている現地の囚人の所へ、日曜に着る綺(き)羅(ら)を飾った囚人等(ら)の一族が飲食物持参で遊びに行き、工事最中の道路の真中にむしろを敷いて、囚人達と一緒に一日中飲んだり歌ったりして楽しく過ごすのだ。何という、とぼけた明るさだろう!

ところで、うちのヘンリ・シメレ君はこうした彼の種族一般とどこか違っている。その場限りでないもの、組織的なものを求める傾向が、この青年の中にある。ポリネシア人としては異例のことだ。彼に比べると、白人ではあるが、料理人のポールなど、はるかに知的に劣っている。家畜係のラファエレときては、これはまた典型的なサモア人だ。元来サモア人は体格がいいが、ラファエレも六フィート四インチくらいはあろう。身体ばかり大きいくせに一向(いっこう)意気地(いくじ)がなく、のろまな哀願的人物である。ヘラクレスのごとくアキレスのごとき巨漢が、甘ったれた口調で、私のことを「パパ、パパ」と呼ぶのだから、やり切れない。

彼は幽霊をひどく怖がっている。夕方一人でバナナ畑へ行けないのだ。(一般に、ポリネシア人が「彼は人だ」という時、それは、「彼は幽霊ではなく、生きた人間である。」という意味だ。)

二、三日前、ラファエレが面白い話をした。

彼の友人の一人が、死んだ父の霊を見たというのだ。夕方、その男が、死んでから二十日ばかりになる父の墓の前にたたずんでいた。ふと気がつくと、いつの間にか、一羽の雪白の鶴が珊瑚(さんご)屑(くず)の塚の上に立っている。これこそは父の魂だと、そう思いながら見ている中に、鶴の数が殖えてきて、中には黒鶴もまじっていた。その中に、いつか彼らの姿が消え、その代わりに塚の上には、今度は白猫が一匹いる。やがて、白猫の周りに、灰色、三毛、黒、と、あらゆる毛色の猫どもが、幻のように音も無く、鳴声一つ立てずに忍び寄って来た。その中に、それ等(ら)の姿も周囲の夕闇の中へ融(と)け去ってしまった。鶴になった父親の姿を見たとその男は堅く信じている…………云々(うんぬん)。

十二月××日

午前中、プリズム羅針儀(らしんぎ)を借りてきて仕事にかかる。この器械に私は一八七一年以来触れたことがなく、また、それについて考えたこともなかったのだが、とにかく、三角形を五つ引いた。エディンバラ大学工科卒業生たるの誇りを新たにする。だが、何という怠惰な学生で私はあったか! ブラッキイ教授やテイト教授のことを、ひょいと思い出した。

午後はまた、植物どものあらわな生命力との無言の闘争。こうして斧(おの)や鎌(かま)をふるって六ペンス分も働くと、私の心は自己満足でふくれ返るのに、家の中で机に向かって二十ポンド稼いでも、愚かな良心は、己の怠惰と時間の空費とをいたむのだ。これは一体どうしたわけか。

働きながら、ふと考えた。

俺は幸福か? と。

しかし、幸福というやつはわからぬ。それは自意識以前のものだ。が、快楽なら今でも知っている。色々な形の、多くの快楽を(どれもこれも完全なものとてないが)。それらの快楽の中で、私は、「熱帯林の静寂の中で唯(ただ)一人斧(おの)をふるう」この伐木(ばつぼく)作業を、高い位置に置くものだ。誠に、「歌のごとく、情熱のごとく」この仕事は私を魅する。

現在の生活を、私は、他のいかなる環境とも取り換えたく思わない。しかも一方、正直なところを言えば、私は今、ある強い嫌悪の情で、絶えずゾッとしているのだ。本質的にそぐわない環境の中へ強いて身を投じた者の感じねばならない肉体的な嫌悪というやつだろうか。神経を逆なでする荒っぽい残酷(ざんこく)さが、いつも私の心を押しつける。うごめき、まつわるものの、いやらしさ。周囲の空寂と神秘との迷信的な不気味さ。私自身の荒廃の感じ。絶えざる殺(さつ)戮(りく)の残酷(ざんこく)さ。植物どもの生命が私の指先を通して感じられ、彼らのあがきが、私には歎願(たんがん)のように応える。血にまみれているような自分を感じる。

ファニーの中耳炎。まだ痛むらしい。

大工の馬が鶏卵(けいらん)十四個を踏みつぶした。昨夕は、うちの馬が脱出して、隣(といっても随分離れているが)の農耕地に大きな穴をあけたそうだ。

身体の調子はすこぶる良いのだが、肉体労働が少し過ぎるらしい。夜、蚊(か)帳(や)の下のベッドに横になると、背中が歯痛のように痛い。閉じた瞼(まぶた)の裏に、私は、近頃毎晩ハッキリと、限りない、生々した雑草の茂み、その一本一本を見る。つまり、私は、くたくたになって横たわったまま何時間も、昼の労働の精神的復誦(ふくしよう)をやってのけるわけだ。夢の中でも、私は、強情な植物どものつるを引っ張り、いらくさの棘(とげ)に悩まされ、シトロンの針に突かれ、蜂には火のように刺され続ける。足もとでヌルヌルする粘土、どうしても抜けない根、恐ろしい暑さ、突然の微風、近くの森から聞える鳥の声、誰かがふざけて私の名を呼ぶ声、笑声、口笛の合図…………大体、昼の生活を夢の中で、もう一ぺん、し直すのである。

十二月××日

昨夜、仔豚(こぶた)三頭盗(ぬす)まれる。
今朝、巨漢ラファエレが、おずおずと我々の前に現れたので、このことについて質問し、やまをかけて見る。まったく子供だましのトリック。ただし、これはファニーがやったので、私はあまりこんなことを好まぬ。まずラファエレを前に坐(すわ)らせ、こちらは少し離れて彼の前に立ち、両腕を伸ばし両方の人差指でラファエレの両眼(め)を指しながら徐々に近づいて行く、こちらのもったいぶった様子にラファエレは既に恐怖の色を浮べ、指が近づくと眼(め)を閉じてしまう。その時、左手の人差指と親指とを拡(ひろ)げて彼の両眼(め)の瞼(まぶた)に触れ、右手はラファエレの背後(うしろ)にまわして、頭や背を軽くたたく。ラファエレは、自分の両眼(め)にさわっているのは左右の人差指と信じているのだ。ファニーは右手を引いて元の姿勢に復(かえ)り、ラファエレに眼(め)を開かせる。ラファエレは変な顔をして、先刻頭の後にさわったのは何です、と聞く。

「私についている魔物よ。」とファニーが言う。「私は私の魔物を呼び起したのよ。もう大丈夫。豚(ぶた)盗人(ぬすつと)は、魔物がつかまえてくれるから。」

三十分後、ラファエレは心配そうな顔をして、また、我々の所へ来る。さっきの魔物の話は本当かと念を押す。

「本当だよ。盗(と)った男が今晩寝ると、魔物もそこへ寝に行くんだよ。じきにその男は病気になるだろうよ。豚(ぶた)を盗(と)ったむくいさ。」

幽霊信者の巨漢はますます不安の面持ちになる。彼が犯人とは思わないが、犯人を知っていることだけは確かのようだ。そして、恐らく今晩あたりその仔(こ)豚(ぶた)の饗(きよう)宴(えん)にあずかるであろうことも。ただし、ラファエレにとって、それはあまり楽しい食事ではなくなるだろう。

この間、森の中で思いついた例の物語、どうやら頭の中で大分醗(はつ)酵(こう)してきたようだ。題は、「ウルファヌアの高原林」とつけようかと思う。ウルは森。ファヌアは土地。美しいサモア語だ。これを作品中の島の名前に使うつもり。まだ書かない作品中の色々な場面が、紙芝居の絵のように次から次へと現れてきて仕方がない。非常に良い叙事詩になるかも知れぬ。実に下らない甘ったるいメロドラマに堕する危険も多分にありそうだ。何か電気でもはらんだような工(ぐ)合(あい)で、今執筆中の「南洋だより」のような紀行文など、ゆっくり書いていられなくなる。随筆や詩(もっとも、私の詩は、いきぬきのための娯楽の詩だから、話にならないが)を書いている時は、決して、こんな興奮に悩まされることはないのだが。

夕方、巨樹の梢(こずえ)と、山の背後とに、壮大な夕焼け。

やがて、低地と海とのかなたから満月が出ると、この地には珍しい寒さが始まった。

誰一人眠れない。皆起き出して、掛けぶとんを探す。何時頃だったろう。――外は昼のように明るかった。月はまさにヴァエア山頂にあった。ちょうど真西だ。鳥どもも奇妙に静まり返っている。家の裏の森も寒さにうずいているように見えた。
六十度より降(くだ)ったに違いない。

(続く)

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訳者あとがき

『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』で知られるロバート・ルイス・スティーヴンソンは、日本では児童文学の作者とみなされていますが、大人が読んでも面白い本を書いた稀代のストーリーテラーでもあります。

国際ペンクラブの初代会長でノーベル文学賞作家でもあるイギリスのジョン・ゴールズワージーはスティーヴンソンをディケンズに匹敵する物語作者だと評し、ゴールズワージーと同年生まれ(一八六七年)で英国に留学した漱石もスティーヴンソンを高く評価していました。

そのあたりのことは、スウィフトの『ガリバー旅行記』やデフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』、夏目漱石の『吾輩は猫である』などとも共通しています。
一見すると、子供向けの物語のようでありながら、その実、本当にそのよさやすごさを理解するには、世の中についての知識や判断力が身についた大人でなければわからない、というわけです。

簡略版の児童書ではなく、大人向けの完訳版をそれぞれ実際に読んでみれば納得がいくでしょう。

スティーヴンソンは一八五〇年、スコットランドの技術者の家系に生まれました。
祖父も父も灯台や港湾建設の専門家(土木技師)で、彼もその後を継ぐべくエディンバラ大学で土木工学を専攻します。しかし、生まれつき虚弱で、持病(結核)を抱えていたため、卒業間際に法科に転じて弁護士となりました。

本心では文学で身を立てたいと願っていたものの、生計を得る手段として実務家を選んだというわけです。とはいえ、法廷に立つことはなく、療養のかたわら、猛烈な勢いでさまざまな本を読んでは執筆にはげむという生活で、エッセイや短編から徐々に対象の幅を広げて、最初の長編『宝島』で高い評価を受けて専業作家として自立したのが三十三歳の時です。

欧州カヌー紀行(原題「内陸の旅 An Inland Voyage」)は、その数年前、無名で駆け出しの作家として試行錯誤している二十代のときに、友人と二人で試みたヨーロッパ大陸でのカヌーによる川旅の記録です。

当時、同じスコットランド出身の冒険家ジョン・マクレガーが、自身の設計・製作による、帆走も可能な木造カヌーでライン川やドナウ川などのヨーロッパの大河や中東を旅した航海記がイギリスのみならずフランスを含めた欧米各国で大評判になっていました。

やがて世界的なベストセラー作家となるスティーヴンソンも、若者らしく未知の冒険に駆り立てられた、というところでしょうか。
日本でも、一九八〇年代に野田知佑の名著『日本の川を旅する』が発表され、カヌーを使った川旅が若者やもう若くない人々を魅了しブームになっていったのと似た構図ですね。

スティーヴンソンの川旅のルートは、こうなっていました。

    ベルギー北部の港湾都市アントワープ(アントウェルペン)を出発。
    スヘルデ川(エスコー川)をさかのぼり、
    運河を経由して首都ブリュッセルへ。
    さらに、山間部で多数の水門が狭い間隔で続く運河を避けるため、
    鉄道で国境を越えてフランスへ。
    サンブル川/運河を経てオアーズ川を下り、
    パリ近郊でセーヌ川に合流し、海辺のル・アーブルまで。

スティーヴンソンは生涯を通じて持病に苦しみますが、病気が悪化しないような気候の地を求めて、妻ファニーの母国アメリカの各地を訪ね、タヒチやハワイなど太平洋の島々を航海したりしましたが、結局、南太平洋のサモアに住み着くことになります。

そのサモアでのスティーヴンソンを描いたのが、中島敦の『光と風と夢』です。
中島敦自身も気管支喘息をわずらっていて、病気悪化のため、横浜女学校の教師をやめて西太平洋のパラオにあった南洋庁に勤務した経験があり、スティーヴンソンには大いに共感するところがあったようです。

『山月記』の虎になった主人公にも、『光と風と夢』のスティーヴンソンにも、三十三歳で夭折することになる中島敦自身の強い自己投影が感じられます。

『光と風と夢』は一九四二年上半期の芥川賞の候補になりました。結果は「該当作なし」で落選。

選考委員は、川端康成など十二名(選評を残しているのは七名)。
候補作は二十一作。実質的に石塚友二の『松風』と中島敦『光と風と夢』の争いで、小島政二郎と横光利一が『松風』を推し、室生犀星が『光と風と夢』を推し、川端康成が両作授賞。他は「該当作なし」でした(文藝春秋一九四二年九月号より)。

『光と風と夢』についての選評(一部抜粋)

横光利一
師弟関係にある石塚の松風については「文学としてはこれほどの名文は近ごろ稀であり」と推しているものの、他の二十作にはまったく触れていません。

瀧井孝作
一寸面白いと思ったが(中略)創作ではないような感じもした。

小島政二郎
南洋の風物描写など、文字面だけで、現実の色彩も光線も我々の五感に迫って来ない。その点、私は退屈した。

宇野浩二
明らかに、冗漫であり、散漫であり、書き方も、安易で、粗雑である。

久米正雄
正直なところ、素晴らしく辣腕で、力作なのは分ったが、いいのか悪いのか分らない気がした。

室生犀星
私は一票を投じた。

川端康成
いずれかに、或いは二篇共に授賞したかった。(略)発表の当時、反響が高く、相当の人々に読まれもしたので、一応世に出て認められた作品であるから、そういう意味では、作者と共に私も慰められるわけである。

歴史の審判という言葉がありますが、文学賞に限らず賞の選考は究極的には「選者自身の力量や眼力が問われる」ということでもあるようです。

ロバート・ルイス・スティーヴンソンは、一八九四年十二月、サモアの自宅で脳溢血のため死去しました。享年四十四。

墓はサモア・ウポル島、バエア山の山頂(標高四七二メートル)にあります。
(墓碑銘の写真)

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『スティーヴンソンの欧州カヌー紀行』を出版しました

スティーヴンソンの欧州カヌー紀行 

ロバート・ルイス・スティーヴンソン著 明瀬和弘訳

400円(税込)
2021年10月10日
ISBN 978-4-908086-10-6

・ロバート・ルイス・スティーヴンソンの An Inland Voyage の新訳。
・中島敦の『光と風と夢』(現代表記版)も併載。

ロバート・ルイス・スティーヴンソンは『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』などの作品で知られる十九世紀イギリスの作家で、晩年(というか、四十四歳で死亡しているので短すぎるその人生の後半)は、転地療養に適した土地を探した末に、南太平洋のサモアに妻と移り住み、その地で没しました。
この紀行は、二十代のスティーヴンソンが友人と二人で大陸(ヨーロッパ)にカヌーを持ちこみ、川や運河づたいに旅をした記録です。
未来の世界的ベストセラー作家がまだ無名だった若き日の、好奇心旺盛で、冒険やキャンプなどのアウトドア大好き青年だったころの、時代の最先端をいくセーリング・カヌー(ロブロイ・カヌー)を用いた川旅で、ヨーロッパの大河を上流に向かって必死に漕いだり、スリル満点の急流下りを楽しんだり、風がよければ帆走したりと、鉄道や馬車など普通の旅行手段ではとうてい味わえないスリルや緊張感や楽しみに満ちています。
本書の後半には、サモアに移住したスティーヴンソンの晩年を描いた中島敦の『光と風と夢』を併載しています。
中島敦も気管支ぜんそくの転地療養をかねて西太平洋パラオの南洋庁に勤務した経験があり、スティーヴンソンには大いに共感するところがあったようです。
『山月記』の虎になった主人公にも、『光と風と夢』のスティーヴンソンにも、三十三歳で夭折することになる中島敦自身の強い自己投影が感じられます。

立ち読みコーナーはこちら(準備中)

防災施設(^_^)としてのうみへん

今年の夏、こちらは記録的な大雨で、消防からの呼びかけもあり土砂崩れを警戒して三日間避難しました。一日目はホテルに、二日目以降は「うみへん」こと海に浮かぶ編集室(早い話が海上係留のヨット)に泊まりました。

普段から水や非常食は用意してあるんですが、実際に寝泊まりするとなると、それなりに細かな改善すべき点があれこれ出てきますね。

そのあたりのことを備忘録を兼ねて少し書いておきます。

キャンピング・レベルのローテクの話なので、あまりテレワークの参考にはならないかもしれません――あらかじめ、お断りしておきます。

うみへん(海に浮かぶ編集室)は水面自体に浮かんでいるので、大雨の時の避難所としては問題なく使えます(台風の時は逆に危険かな。半日がかりで増し舫いをして地上の堅固な建物に避難)。

で、避難で長時間滞在するときに大切なことは、疲れをためないこと、つまり眠りが大切――というわけで、まずは足を伸ばして寝る場所を確保するのが最優先。

船室のレイアウトは中央のテーブルを挟んで両側にソファー/長椅子があるので、それがベッドとして使えます。こんな感じ。

ソファとしての幅は45センチですが、分厚い背もたれを外すと幅60センチ、長さ二メートルの、一昔前の寝台列車風のベッドに早変わり。 背もたれの裏(白い部分)は物入れ。その上の段には本や書類が置けます。ミニコンポは小型船舶検査の法定備品で必要なラジオ兼用。スマホも無線装置として信号紅炎という救助を求める発煙装置の代用として認められています。

照明はこんな感じ。

丸い方が元からの電球式のもので、その横は12VのLEDライト。 本を読むときは別にスポットライトを使用。

で、改善すべき点は

・高電力のインバータ設置 ・出入り時の雨対策

インバータはバッテリーで一般的な直流12Vを交流100Vに変換して家庭用の製品が使えるようにする装置。

非常食だけでは味気ないので食生活の幅を広げるために電子レンジがほしいところです。

タイミングよく中古の単機能のレンジをただであげるよという奇特な人がいたのでありがたく頂戴し、そのために大容量(1800W)のインバーターを設置しようと思っています。

1800Wのインバータは以前から持っていたのですが、ほとんど使わないので、パソコンを使うくらいはこれで十分と500Wの小型のものに変更していました。

とはいえ、1800Wのインバータを設置するには配線からやり直さなければなりません。

100V交流だと流れる電流は18Aにすぎませんが、12Vのシステムでは150Aになるわけで[ 電力P(W) = 電圧E(V) × 電流I(A) ]、専用のバッテリーを追加し、配線も車のバッテリーあがりのときに活躍するブースターケーブル並みの太さのケーブルが必要になります。

現状、バッテリーはこんな感じ。エンジン始動用と照明用の2個を並列設置。車用ではなくボイジャーという小型船舶用のディープサイクルのバッテリー。

この隣のスペースにまったく別系統にしてバッテリーを設置する予定。

次が雨よけ対策

これは二つあって、傘をたたんで船室に入る際に傘を濡れないようにドジャー(下の写真の青いもの)とビミニトップ(右端のソーラーパネルを載せているアーチの下の日よけ)間に雨よけシートが必要、それと、ヨットでは定番のサンブレラという生地自体の雨漏りを防止すること。

大雨になると防水スプレーくらいではなかなか布生地からの雨漏りは防ぎきれないので、軽くて加工しやすく入手しやすいプラダンとの二重張り、を考えています。プラダンは紫外線に弱いのでサンブレラの下側に置く形になるでしょうか。

こまかいことを延々とここに書いても退屈でしょうから、続きはまたの機会に。

積雪!?

昨日から雪が舞っていましたが、夜が明けると積もっていました。

といって、数センチですが。てっきり今年は積雪しないかと思っていました。

バウハッチから出ている金属の管は(キャンピングカーなどでよく使われているFFヒーターの)排気管。先端は雨が降り込まないように木栓でふたをしてあります(ヒーター使用時はもちろん外します)。

こういう寒いときでも、カモ達は平気な顔で海に浮かんでいます。

『スナーク号の航海』(ジャック・ロンドン著)を刊行しました

ネット連載していたアメリカの作家ジャック・ロンドンのヨットによる太平洋周航記『スナーク号の航海』を電子書籍として出版しました。

『野生の呼び声』や『白い牙』などのアラスカ物で知られるアメリカの作家ジャック・ロンドンは、『馬に乗った水夫』という伝記のタイトルが象徴しているように、北海道沖でのアザラシ猟の漁船に乗り組んだり、ヨットを建造して世界一周航海に出発するなど、生粋の海の男でもあった。本書はヨット、スナーク号による太平洋航海記の全訳(本邦初訳)である。ジャック・ロンドンが十七歳で懸賞エッセイに応募して一等になった幻の、ある意味で事実上の処女作となる『日本沖で遭遇した台風の話』も巻末に収録。

電子ブックの構成や書式の都合で割愛した原著の写真についても「立ち読み」コーナーですべて閲覧可能です。


立ち読み:『スナーク号の航海』(ジャック・ロンドン著)1/5

Amazon、楽天KOBO、紀伊國屋書店 Kinnopy、Appleブックスなど主要電子書籍ストアで販売されます。

発行日は本日(11月10日)ですが、各サイトで購入可能になる時期には多少ずれがあります。

また、オンデマンド出版で紙本も購入可能となる予定です(現時点で Amazon のみです。なお、手続き上、電子書籍の発行から紙書籍の販売までは1,2週間遅くなります)。

 

 

立ち読み:『スナーク号の航海』(ジャック・ロンドン著) 5/5

訳者あとがきを読む

本書はアメリカの作家ジャック・ロンドン(一八七六年~一九一六年)が三十一歳になった一九〇七年、ケッチ型帆船のスナーク号で南太平洋を航海したときの記録 The Cruise of the Snark の全訳である。
この航海は当初、数年をかけた世界一周を予定していたが、本書を読みすすめるとおわかりのように、南太平洋でさまざまな風土病や感染症などの疾病に作家自身を含めた乗組員のほとんどが苦しめられ、オーストラリアに到着したところで航海を断念している。

                        * * * * *

作家にはイマジネーションを駆使して想像力豊かな物語をつむぎだしていくタイプと、逆に自分で見たり聞いたりした実体験に基づいて物語を構築していくタイプの作家がいる。
ジャック・ロンドンは後者である。
彼をとりまく生活や環境の変化が生み出される作品に大きな影響を与えている。

                        * * * * *

ジャック・ロンドンは一八七六年、サンフランシスコで生まれた。
母親はフローラ・ウェルマン。父親は占星術の「教授」と呼ばれていたウィリアム・チェーニイだと「されて」いる。
二人はフローラが妊娠した当時、同棲していたが結婚はしてはおらず、フローラの自殺未遂をきっかけに、チェーニイが「フローラをはらませて捨てた」と新聞紙上でセンセーショナルに書きたてられたことから、二人は別れ、チェーニイは同地を離れている。
後年、二十一歳になったジャック・ロンドンはチェーニイに対し「自分の父親ではないか」と手紙で問い合わせている。チェーニイはフローラと同棲していたことは認めたものの、自分はインポテンツで彼女は複数の男性と交際していたと、父親であることを否定した。
ジャックを出産したフローラはまもなく、妻と死別し二人の娘を抱えていたジョン・ロンドンと結婚した。ジャックの出生時のファーストネームはジョンだったが、義理の父親と同じになるため、ジャックと改名された。
義父のジョン・ロンドンは仕事を転々とし、やがて一家でサンフランシスコからオークランドに移って食料品店をはじめた。それなりに繁盛していたらしい。妻のフローラの勧めで共同経営者をつのって業務を拡大し新規出店したところ、その共同経営者が店舗や商品を勝手に売り払って現金だけを持って遁走したことにより破産するはめになった。
一家はアラメダ、サンマテオ、リバモアと、カリフォルニア州内を転々とし、一八八一年、サンフランシスコ郊外の農場に居をかまえた。
生活が多少安定してくると、ジャックは読書に熱中するようになり、これは生涯続いた。
やがて、一家は農場をやめてオークランドに転居した。そこで、公立図書館という、無料で本が借りられる、本好きには天国のような施設の存在を知ったことから、ジャックの読書熱にも拍車がかかった。
義父のジョンは堅実な農民タイプで、実直に仕事をこなし、地に足をつけた生活を送る性格だったが、チェーニイの影響で占星術にこっていた実母のフローラは、生活が安定するときまってそれに物足りなさを感じるような人だった。一攫千金をねらって馬の飼育や養鶏などの事業に夫を駆りだしては失敗し、一家は事業運営と破産、転居を繰り返しながら貧困の底に沈んでいく。
ジャックは父親が失業した十一歳の頃から、新聞配達をしたり、氷屋の配達やボウリング場のピンを立てる仕事などをやって家計を助けた。
冒険物語を読むことで、現実を逃避することができた。
そして、サンフランシスコ湾に面したオークランドの岸辺には捕鯨船や牡蠣(かき)の密漁船、そうした密漁の監視船、商業や交易のためのさまざまな帆船や大型の平底船などが入り混じって碇泊していた。
冒険物語を実現してくれる海がそこにあった。
ジャックはヨットクラブの周辺をうろついては雑用を引き受けて小遣い稼ぎをしたり、小さな舟の操船、とくに帆の扱い方などを習ったりした。
十三歳で公立学校を卒業する。
彼は答辞を読むことになっていたが、卒業式に着ていけるような服を持っていなかったので欠席した。進学は断念した。
一年ほどは半端仕事で小銭を稼ぎ、ためたお金で小さなボロ舟を手に入れてサンフランシスコ湾内で自己満足の冒険航海を楽しんでいたりもしたが、父親のジョンが列車にはねられて重傷を負ったことから、定職を求めて缶詰工場に勤めた。朝から晩まで長時間、低賃金で働いた。
このころ、サンフランシスコ湾では牡蠣(かき)泥棒が横行していた。夜の闇にまぎれて養殖されている牡蠣(かき)を盗み、市場で売りさばくのだ。自分の船さえ持っていれば一晩で大金を稼げると聞いたジャックは、子供の頃の乳母で、およそ家庭的とはいえない母親の代わりに、ジャックを実の子供のように育ててくれた黒人女性から金を借り、牡蠣(かき)の密猟者の一人から小さな帆船を譲り受けた。
最初の略奪で、缶詰工場での三カ月分の報酬を一晩で稼ぐことができた。
それからの一年ほどは密漁と酒と喧嘩の日々が続く。船を買ったときの借金もすべて返済し、家族の生活も支えた。
が、儲けがあっても酒に消えていき、喧嘩で死にかけたり、密漁仲間とのいざこざで自分の船を沈められたりもした。アーヴィング・ストーンによるジャック・ロンドンの伝記『馬に乗った水夫 A Sailor on Horseback』によれば、「あいつは一年後には生きちゃいないな」と仲間に言われるほど、すさんだ生活を送っていた。
そうした生活を続ける一方で、満たされない心を埋めるようにまた本を読むようになった。キップリングやメルヴィル、バーナード・ショーなどである。
そんなとき、酔っぱらって桟橋から海に落ち、岸から遠くへ流され、死を覚悟したものの、なんとか陸に泳ぎつくという体験もしている。
やがて、盗んだ牡蠣(かき)を市場に持っていく途中で州警察の取り締まりに会い、密漁なんかやめて逆に密漁の監視をやらないかという勧誘を受けた。捕らえた違反者が支払う罰金の半額を報酬として受けとれるという条件だった。
犯罪者の心理や手口や行動については、犯罪者以上によく知る者はいないというわけだ。そこで、密漁から密漁の監視へと百八十度の方向転換をすることになった。
ジャック・ロンドンは今度は密猟監視官代理として数多くの現場に踏みこみ、相手と命がけの戦いをし、ずるがしこい人間や高潔で誠実な人間など、さまざまな人間同士の本音のぶつかりあいを体験することになる。
そうした生活が一年ほど続き、彼はさらに大きな世界を見てみたいと思うようになり、北太平洋を航海する漁船に乗り組むことにした。
一八九三年、アザラシ漁に出るソフィー・サザランド号で北太平洋を半年ほどの長期にわたり航海した。このとき日本の小笠原諸島や横浜にも上陸し、北海道沖で台風に見舞われている。
その航海から戻ってからまもなく、『日本沖で遭遇した台風の話』を書き、サンフランシスコの地方新聞、コール紙(さまざまな吸収・合併を経て、現在はサンフランシスコ・エグザミナー)のエッセイ・コンテストに応募し、一等に入選した。十七歳のときである。ちなみに、このコンテストの二等と三等は名門スタンフォード大とカリフォルニア大バークレー校の学生で、ジャックは公立学校で日本の中学二年に相当する八年生までの教育しか受けていなかった。
賞金は二十五ドル。
これが、それから十年後に大ベストセラー『野生の呼び声』を発表して当代随一の人気作家となるジャック・ロンドンの、活字になってお金をかせいだ最初の文章となる。

とはいえ、エッセイ一篇で作家になれるはずもない。
当時はひどい不景気で仕事も少なくて、発電所での石炭運びの仕事にやっとありついたが、自分が採用されたためにそれまでその仕事をしていた者が解雇され、家族をかかえた一人が自殺したことから、その仕事もやめて、失業者のワシントンへのデモ行進に参加したりもしている。
十九歳になった年、ジョン・ロンドンの娘、つまり血のつながっていない義理の姉の援助で高校に入学するが、なかなか学校生活になじめずに中退する。また一念発起して勉強し、カリフォルニア州立大バークレー校に入学するものの、生活苦もあって一学期で退学といったことを繰り返す。
クリーニング屋で働く一方で、作家になろうと短編を書いては雑誌に送ったりもした。ことごとく没だった。

このころ、アラスカのクロンダイクで金鉱脈が発見され、ゴールドラッシュが起きる。
ジャックは義姉の夫とともにアラスカへと向かう。旅費は義姉が自宅を抵当に入れて作ってくれた。が、アラスカ・クロンダイクでは壊血病にかかり二カ月足らずで舞い戻るはめになった。
金の採掘には失敗した。
とはいえ、アラスカの大地と自然という、作家ジャック・ロンドンの誕生へとつながる文学の金鉱脈ともいうべきものを探り当てて帰ってきたのだった。


アラスカから戻ってきたジャックはクリーニング屋や窓ふきなどで生活費を稼ぎながら、作家になるべく短編を書いては雑誌に送り続けた。相変わらず没続きだったが、アラスカに材をとった短編がぽつぽつと採用されて雑誌に掲載されるようになり、アラスカ物の短編を集めた最初の短編集『狼の息子』が一九〇〇年四月に出版されて好評価を得た。二十四歳のときだ。
その二年後に最初の長編『雪原の娘』、その翌年に『野生の呼び声』やルポルタージュ『どん底の人々』を出版。さらに翌年には骨太の海洋冒険小説『海の狼』を出版し、あれよあれよという間に(二十代後半で)当代随一のベストセラー作家になっていく。


ジャック・ロンドンが帆船スナーク号を建造して世界一周(結果的には南太平洋周航)に出かけるのは一九〇七年、三十一歳のときである。その前年に『白い牙』を書き上げており、航海後に出版された自伝的な『マーティン・イーデン』は執筆中だったが、ある意味、その時点において、ジャック・ロンドンの代表作ともいえる作品群はほぼ書き終えていた。
オーストラリアでスナーク号を売った彼は、病気が癒(い)えると、妻のチャーミアンとナカタを伴って南米に旅行したりして翌年の七月に米国に帰国した。
それからの彼は、出版社に前借りしていた莫大な借金を返すため、原稿を書きまくることになる。
あいかわらずの人気で、世界を見渡してみても当時の作家としてはトップクラスの印税を稼いでいた。しかし貧しい少年時代の反動か、社会主義に肩入れする一方、自宅で盛大なパーティーを開いたり、ウルフ・ハウスと呼ばれる二十六部屋の大豪邸を建てるなど、金遣いもけた違いで、手元にお金はほとんど残らなかったと言われている。ウルフ・ハウスという名の豪邸も竣工はしたものの、ジャックとチャーミアンが実際に移り住む前に原因不明の火事で焼失している。
スナーク号の航海後も、ジャック・ロンドンの書く作品はよく売れたが、それに反比例するように、作品の質は落ちていく。創作力が枯渇し書きたいテーマがなくなっても、借金を抱えた作家は書き続けなければならない。書きさえすれば「名前」で本は売れていく。
というわけで、若い作家志望者から短編のプロットを買い上げて作品に仕上げて自作として発表したりもしている。
後年にアメリカの作家として初めてノーベル文学賞を受賞することになる若き二十五歳のシンクレア・スミスもそうした作家志望者の一人で、合計二十七本の短編のアイディアをジャックに売ることに成功している。当時、無名で困窮していたシンクレア・スミスの方からプロットを買ってくれるよう依頼する手紙を書き、才能あふれる未来の大作家とイマジネーションが枯渇した現代の大作家の利害が一致したわけだった。

「シンクレア・ルイス様 提供したいプロットは他にまだあるかい?」という書き出しで、シンクレア・ルイスが提供した「庭の恐怖 The Terror of Garden」(に基づくジャックの短編)がサタデー・イブニング・ポスト紙に掲載される旨を伝えている。

一九一六年一一月、ジャック・ロンドンはカリフォルニアのグレン・エレンにある自分の農場で死亡した。四十歳だった。
死亡診断書には尿毒症と記載された。看取った医者の証言によれば、モルヒネを大量摂取した自殺の可能性も示唆されている。

本書については、読みやすさを考慮し、長い段落には適宜改行を入れた。
また、必要に応じて図を挿入し、帆船での航海を理解するために必要な最小限の訳注(*)をつけてある。
原著に掲載されている白黒写真は紙数の都合等で割愛したが、出版社のウェブサイトの「立ち読みコーナー」ですべての写真を閲覧可能。


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原著に掲載されていた写真を読む

著者あとがきを読む

ジャック・ロンドン17歳のときの『日本沖で遭遇した台風の話』を読む

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立ち読み:『スナーク号の航海』(ジャック・ロンドン著) 4/5

『日本沖で遭遇した台風の話』を読む

『野生の呼び声』や『海の狼』など数多くのベストセラーを書いたアメリカの作家ジャック・ロンドンは、複雑な家庭環境で育ち、家も貧しかったため、日本の小中学校にあたる公立学校(八年制)は出たものの、上の学校に進学することはできず、缶詰工場で働いたりカキの密漁を行ったりしたあげく、北太平洋でアザラシ漁に従事する遠洋漁船に乗り組んだ。このとき、日本の土(小笠原諸島と横浜)も踏んでいる。
そのときの体験をエッセイにまとめ、サンフランシスコの地方新聞(コール紙、後のエグザミナー紙)のコンテストに応募したのがこの作品で、みごと一等を射止めた。十七歳のときである。
これが十年後には時代の寵児ともてはやされることになる作家の、初めて活字になり金を稼いだ作品である。小説ではないが、言葉の本当の意味で、ジャック・ロンドンの処女作といってよい。
過酷な自然と人間とのかかわりを描き、将来の人気作家の片鱗を十分に感じさせてくれる。


日本沖で遭遇した台風の話

朝直の四点鍾だから午前六時だった。ちょうど朝食を終えたころ、甲板で当直していた者には停船の準備、他の者は全員、実際に漁猟を行うボートのそばで待機せよという命令がなされた。
「取り舵! 取り舵いっぱい!」と、航海士が叫んだ。「トップスル、展開! フライングジブ、取りこみ! ジブは風上で裏帆。フォアスル、下ろせ!」
ぼくらの乗ったスクーナー型帆船のソフィー・サザランド号は日本の北海道・襟裳(えりも)岬の沖でヒーブツー(停船)した。一八九三年四月十日のことだ。
それから喧噪と混乱があった。六隻のボートに対し十八人の男たちが配置されていた。ボートを吊り下げるためのフックをかける者もいれば、固縛してあるロープをほどく者もいた。操舵手は方位磁石と波よけを持ってきた。漕ぎ手は弁当箱を手にしている。射手は二、三丁の散弾銃、一丁のライフル、それに重い弾薬箱をかつぎ、足元がふらついていた。そうした荷物はすべてすぐにオイルスキンや手袋と一緒にボートに収納された。
航海士が最後の号令を発し、ぼくらは出発した。いい猟場を確保するため、三人で三対のオールを漕いで進む。ぼくらのボートは風上側にいたので、他のボートより長い距離を漕がなければならなかった。まもなく風下側から順に一番目、二番目、三番目のボートが帆を上げ、追い風を受けて南下するか、横風を受けて西に向かった。母船のスクーナーは散っていくボートの風下へと移動する。万一のトラブルに備え、ボートが風を受ける状態で母船に戻れるようにするためだ。
美しい朝だった。
だが、ぼくらのボートの操舵手は昇ってくる太陽を眺め、不吉なものを目にしたように頭を振り、予言するようにつぶやいた。
「朝焼けか。こりゃ荒れてくるな」
太陽は怒っているように見えたし、斜め後方の明るい「縮れっ毛」のような雲も赤く染まって不気味だった。が、それも間もなく消えた。
ずっと北の方には、襟裳(えりも)岬が深海から立ち上がった巨大な怪物の恐ろしい頭のように黒い影となって見えている。まだ溶けきっていない冬の雪が、陽光をあびて白くきらきらと輝き、そこから軽風が海の方に吹きおろしてくる。巨大なカモメが羽ばたきしながら海面をバタバタと半マイルほども走り、風を受けてゆっくり上昇していく。バタバタする足音が聞こえなくなるとすぐに、キョウジョシギの群れが飛び立った。ヒューヒューと風切り音を鳴らして風上方向へと飛び去っていく。そっちの方向ではクジラの大きな群れが遊んでいた。潮を吹く音が蒸気機関の煙を吐く音のように伝わってくる。ツノメドリの鋭く切り裂くような鳴き声が耳をつんざく。
ぼくらの前方にいた半ダースほどのアザラシの群れにとってはそれが警告になった。ブリーチングで完全に海面から宙に飛び出したりしながら、アザラシたちは遠ざかっていった。
ぼくらの頭上を一羽のカモメがゆっくり大きな円を描いて飛んでいた。母船の船首楼では、故郷の家を思い出させるように、イエスズメが屋根にとまり、おびえたりもせず、頭を一方にかしげて楽しそうにさえずっていた。漁猟用のボートはやがてアザラシの群れに侵入した。バン! バン! 風下の方から銃声が聞こえてくる。
風は少しずつ強くなってくる。午後三時までに、ぼくらのボートは半ダースのアザラシを捕まえた。まだ猟を続けるか母船に戻るか相談していると、本船に戻れという合図の旗がスクーナーのミズンマストに揚がった。風が強くなり、気圧も下がってきたので、航海士はボートの安全を懸念したのだろう。
ぼくらはワンポイントリーフ(一段目の縮帆)をして、追い風を受けて戻った。操舵手は歯を食いしばるように舵柄を両手でしっかり握っている。目には警戒の色が浮かんでいた──ボートが波の頂点まで持ち上がると、前方にスクーナーが見えた。別の波のときはメインシート越しに見えた。ぼくらの後方の海面は波立って黒っぽくなっている。突風かボートを転覆させるような大きな崩れ波が迫っているのだ。
波はお祭り騒ぎのようにはしゃいだり踊ったりしながらも高さを維持して次々に迫ってくる。あっちでもこっちでも、いたるところ延々と大きな波が続いていた。緑の海面が脈打つように盛り上がっては、牛乳をこぼしたように白濁した波しぶきをあげて崩れ、他には何も見えなくなる。だが、それも一瞬のことで、すぐに次の波が出現した。波は太陽から伸びた光の道をたどってくる。見渡す限り大きい波や小さい波が立っていて、溶けた銀のような飛沫やしぶきが飛び散った。濃い緑色だった海は色を失い、まぶしいほどの銀色の洪水が押し寄せ、何も見えなくなった。大しけだ。前方の暗い海面が盛り上がっては砕け落ち、また押し寄せてくる。差しこんでいたきらめく銀の光は太陽とともに姿を消した。西や北西の方からすごい勢いでわき上がった黒雲にさえぎられてしまったのだ。嵐の前ぶれだった。
ぼくらはまもなく母船のスクーナーにたどり着いた。船に戻ったのは、ぼくらが最後だった。大急ぎでアザラシの皮をはぎ、ボートと甲板を洗い流し、船首楼の船室に降りていって暖をとった。体を拭(ふ)き、服を着替えた。熱い夕食がたっぷり用意されていた。スクーナーは帆を張りっぱなしでアザラシの群れを追い、朝までに七十五海里ほども南下していたので、この二日間の狩りで自分たちの居場所もよくわからなくなっていた。
船では午後八時から真夜中までが最初の見張り当番だ。
まもなく風はゲールほどにも強くなってきた。航海士は船尾甲板で行きつ戻りつしながら、今夜はろくに眠れないだろうと予想していた。トップスルはすぐに下ろして固縛された。フライングジブも下ろしてぐるぐる巻きにした。そのころまでには、うねりはさらに大きくなり、ときどき波が甲板に崩れ落ちては積載したボートに激しくぶつかった。
六点鍾(午後十一時)には、全員起きて荒天対策をするよう号令が出た。この作業に八点鍾(深夜十二時)までかかった。
ぼくは深夜当直と交代し、役目から解放された。下の船室に戻ったのはぼくが一番遅かった。スパンカーを巻きとっていたからだ。下の船室では新米の「レンガ積みくん」を除いて全員寝ていた。この新米くんは肺の病気で死にかけていた。海がひどく荒れ、船首楼でもランプの淡い光がちらついたり揺れ動いたりして、黄色のオイルスキンについた水滴に光が当たると黄金のはちみつのように見えた。いたるところでランプの作り出す黒い影が駆けまわっている。船の上方では、棺桶のような船橋のかなたから降下してきた影が甲板から甲板へと走りまわり、洞窟の入口で待ち伏せしているドラゴンのようにも見えた。エレボス*のような闇だった。

  • エレボス: ギリシャ神話の地下の闇を意味する原初の神。

たまに一瞬さっと光が差し、スクーナーがいつもよりひどく傾斜しているのが照らしだされたりもした。その光が消えると、それまでよりもっと闇が濃くなり漆黒となった。索具を通り抜ける風がうなりをあげ、列車が鉄橋を渡るときの轟音のようでもあり、浜に寄せる波のようでもあった。波が船首右舷に大きな音をたてて激突し、梁(はり)を引き裂かんばかりの勢いで砕け散った。船首楼では木の柱や厚板がバラバラになるんじゃないかと思うほどだった。柱や支柱、隔壁がギーギーときしみ、ミシミシと音を立て、揺れ動く寝床で死にかけている男のうめき声をかき消した。
フォアマストが動くたびにマストと甲板の張り板がこすれて木の粉が降り注ぎ、その音が荒れ狂う嵐の音に混じって聞こえてくる。海水がちょっとした滝のように船橋や船首楼から流れ落ち、濡れたオイルスキンの継ぎ目から入ってきては床に流れ落ち、船尾の排水口に消えていった。
深夜当直の二点鍾、陸の言葉で言えば午前一時に、船首楼に命令が響いた。「総員甲板に集合。縮帆せよ!」
寝ぼけ眼の船乗り連中は寝床から転がり出て服を着てオイルスキンをはおり、長靴をはいて甲板に出た。こんな命令が出るのは寒くて荒れ狂った嵐の夜だと決まっている。ぼくは顔をゆがめて自分に文句を言う。「ジャックよ、農場を売って船乗りになるなんて狂気の沙汰だったろ?」
風の力を痛感させられるのは甲板にいるときだ。とくに船首楼から出てきた後は身にしみてそれがわかる。風が壁のように立ちふさがり、揺れ動く甲板では動くこともできず、突風に息をすることすらままならない。スクーナーはジブとフォアスル、メインスルだけを張って停船し、漂泊していた。ぼくらは前に進んでフォアスルを下ろし、しっかり縛りつけた。
闇夜で、きつい作業だった。
嵐の分厚い黒雲が空を覆っているので星も月も見えなかったが、自然の慈悲とでもいうのか、海面の動きに合わせて柔らかい光が発せられていた。強大な波それぞれがすべて、無数の微小生物の発する燐光で輝き、その炎の大洪水にぼくらは圧倒された。波の頂きはますます高く、ますます薄くなり、曲線を描いて高くそびえると、やがて崩れていく。轟音とともに舷墻(げんしょう)*に落ちてくだけ散り、柔らかな光の塊と何トンもの海水が船乗りたちをあらゆる方向に押し流し、くぼんだ場所などに残ったものは割れた光の小さな点となって揺れ動いているが、また次の波で押し流され、新しいものと入れ替わっていく。ときどき、いくつかの波が次々に音を立てて船に崩れ落ちてきて舷墻(げんしょう)まで水浸しになるが、やがて風下側の排水口から流れ出ていく。

  • 舷墻(げんしょう): ブルワーク。舷側の波よけ/転落防止用の低い柵の ようなもの。

メインスルを縮帆するため、ぼくらは一段リーフしたジブで強風を受けて風下に走らざるを得なかった。その時までには海はとんでもない大荒れになっていたので、もはやヒーブツーすらできる状態ではなかった。ぼくらはゴミや水しぶきの集中砲火をあびながら飛ぶように走った。風は左右に振れ、船尾からの巨大な波に横倒しになりかけたりした。
夜が明けてくると、ジブを取りこみ、帆は一枚残らず巻き取った。船はかなり速く流れていたが、船首が波の背に突っこむことはなかった。が、船体中央部では波がくだけて荒れ狂っていた。雨について言えば、降雨はほとんどなかったものの、風が強くて大気には水しぶきが充満し、飛沫が交差した道路を突っ走るように、そしてナイフで顔を切り裂くように飛び交っているため、百ヤード先も見えなかった。
海は暗い鉛色で、長くゆっくりした壮大な巻き波となり、風によって泡が積み重なってできた流体の山のようになった。スクーナーの動きは吐き気をもよおすほど激しかった。山にでも登るように波に当たると船はほとんど行き足を止め、巨大なうねりの頂点に達すると、そこからいきなり左右に傾くのだ。息をのみ、口を開けている断崖におびえたように、一瞬、動きをとめる。それから、いきなり雪崩のように前方に滑り落ちていく。波の背で千個もの破壊槌で打ち砕かれるような衝撃を受け、船首の揚錨架は白濁した泡の海に突っこみ、海水が錨鎖孔を通ったり手すりを乗りこえたりして、あらゆる方向から──前方からも後方からも、右からも左からも甲板に流れこんでくる。
風が落ち始めた。
十時までには、船をまたヒーブツーに戻そうかというまでになった。
一隻の汽船、二隻のスクーナー、最小限の帆だけ張った四本マストのバーケンティン型帆船とすれ違い、十一時には、スパンカーとジブを揚げてヒーブツーした。さらに一時間もすると、はるか西のアザラシの猟場に戻るため、全帆を展開し、風上へと向かった。
甲板下の船室では、二人の男が「レンガ積みくん」の体を布で包んで縫っていた。水葬の準備である。嵐とともに「レンガ積みくん」の魂も消え去った。

(了)


帆船用語について

スクーナー型帆船: 二本以上のマストを持ち、後方のマストが前側のマストと同じかそれより高いタイプの縦帆を持つ帆船。

オイルスキン: いわゆるカッパのこと。布地に油を塗って防水性を高めたことから、特に海で使われるカッパはいまでもこう呼ばれることがある。

ミズンマスト: メインマストの後ろ側にあるマスト。

七十五海里: 約百四十キロメートル(一海里は一八五二メートル)。

ゲール: 風力は風速に応じて階級化されており、現在でも、約二百年前に提唱されたビューフォート風力階級がほぼそのまま使われている(気象庁の風力階級も同じ)。
ゲール(疾強風)は風速一七・二メートル~二○・七メートル。
むろん、この作品ではそれほど厳密な意味で使われてはいないが、気象庁の台風の基準が風速十七メートルなので、どれくらいの風なのかを知る目安にはなる。

バーケンティン型帆船: マストが三本以上の大型帆船で、フォアマストに横帆を持ち、他のマストには縦帆を持つ。
横帆は、ごく単純化すると、日本の千石船のような横向きの帆桁をつけた四角形の帆で、縦帆はいわゆるヨットの三角形の帆のように前縁を固定されたものをいう。

点鍾: 船の当直(ワッチ)で時間を知らせるために鳴らされる鐘。時代や地域によって異なるが、一般には、一回の当直が四時間続き、鐘は三十分毎に鳴らされる。
この鐘(時鐘、タイムベル)は、一点鍾(カーン)、二点鍾(カンカーン)から八点鍾(カンカーンを四回)まであり、四時間ごとに繰り返される。
ファーストワッチ(初夜直: 午後八時~午後十二時)、
ミドルワッチ(夜半直: 深夜零時~午前四時)、
モーニングワッチ(朝直: 午前四時~午前八時)、
と続いていくので、単に四点鍾というだけでは、前後の文脈がわからないと午後十時なのか、午前二時なのか、午前六時なのか判断できない。

ヒーブツー: 船を止めることを意味するが、帆船やヨットの荒天対策としては最も確実で一般的な方法でもある。
具体的には、マストより前の帆(ジブ)を風上側に張って(裏帆にして)前進する力を止める。船は風に対して斜め前を向いた格好で停船し、ゆっくり風下に流れていく。
一般的なヨットではちょうどタッキングでジブを返すのが早すぎて失敗し船足が止まった状態を意図的に作り出し、メインシートを緩めてセイルから風を抜き、舵を風下側に切っておく。
風上に向かっているときはすぐにその状態に入れるが、帆船ではマストや帆の数も多く、艤装も多岐にわたるため、縮帆や荒天対策の手順や方法もバリエーションが多い。
風力がさらに強くなると、ヒーブツーでは対処できなくなる。
その段階になると、すべての帆を下ろして漂泊するか、マストなどに当たる風だけか、小さな帆だけを揚げて風下に走ることになる。

時代背景

現在でもゼニガタアザラシのウォッチングは北海道の観光資源になっているほどで、襟裳岬周辺は世界有数のアザラシの生息地として知られていた。
二十一世紀の現代では、捕鯨やアザラシ漁は資源保護や動物保護の観点から批判されることも多いが、当時はアメリカやカナダの重要な産業の一つでもあった。


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立ち読み:『スナーク号の航海』(ジャック・ロンドン著) 3/5

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スナーク号は水線長四十三フィート(約十三m)で全長は五十五フィート(約十六・七m)、船幅十五フィート(約四・六m)、喫水が七フィート八インチ(約二・三m)だ。二本マストのケッチで、帆はフライングジブにジブ、フォアステイスル、メインスル、ミズン、スピンネーカーがある。
船室の高さは六フィート(約一・八m)で、甲板は手すりで囲まれたところと平らで何もないところに分かれている。水密区画は四つ。七十馬力の補助ガソリンエンジンを動かすのに、一マイル当たり約二十ドルの経費がかかる。五馬力のエンジンは故障していなければポンプを動かしてくれるが、サーチライトの電源にも二度ほどなってくれた。船載の十四フィート(約四・二m)のボートのエンジンはたまには動くようだが、ぼくが乗ろうとすると決まって動かない。
だが、スナーク号は帆船だ。どこへでも帆走で行く。
二年間航海したが、岩や暗礁、浅瀬で座礁したことはない。船内にバラストは積んでいない。鉄製のキールは五トンの重量があり、喫水は深く乾舷(海面から甲板までの高さ)も高い。非常に頑丈だ。フルセイルで熱帯のスコールに遭遇すると舷縁も甲板も波に何度も洗われるが、粘り腰があって転覆するまでには至らない。操船は容易だ。舵から手を放しても、風上航だろうが真横からの風だろうが、昼夜を問わず、きっちり走ってくれる。斜め後方からの風では、帆をきちんと調節しておきさえすれば方向のずれは二点内に収まるし、真追っ手の風では勝手に操舵させておいても三点とずれることはない*。

  • 帆船時代の船舶では、三六〇度の全方位を三十二等分したものを一点(十一度十五分)としていた。二点は二十二度三〇分、三点は三十三度四十五分になる。
    沿岸航海では風向は変わりやすいが、外洋では同じ方向から安定した風が吹いていることが多く、しかも、スナーク号は船底の前後方向にキールが伸びたロングキールで、舵から手を放しても同じ進路を保つ傾向が強いため、こういうことが可能になる。
    キールが縦に細長い現代風のヨットでも似たようなことはできるが、こううまくはいかない。その代わり、ウインドベーンやオートパイロットなど、便利な自動操舵装置が開発され利用されている。

スナーク号は途中まではサンフランシスコで建造された。キールの鋳造にとりかかろうとした日の朝、あの大地震が起きた*。そこで混乱が生じた。建造は六カ月も遅延し、ぼくはスナーク号をほぼがらんどうのまま、エンジンを船底にくくりつけ、材料は甲板に固縛した状態でハワイまで回航して仕上げをした。サンフランシスコにとどまって完成させようとしていたら、今も進水できていなかっただろう。完成する前から、コストは当初の予定の四倍にもふくれあがった。

  • 大地震: 一九〇六年四月十八日のサンフランシスコ地震。マグニチュード七・八の地震で、かつてないほどの大きな被害が出た。

スナーク号は最初からツキがなかった。サンフランシスコでは訴訟を起こされ、ハワイでその請求書は詐欺だと抗弁した。さらに、ソロモン諸島では検疫違反を理由に罰金を課せられた。いろんなしがらみにとらわれた新聞は真実を書かなかった。役立たずの船長を解雇すると、やつがぼろぼろになるまでぼくが暴力をふるったと報道された。一人の若い乗組員が学業を続けるため帰国すると、ぼくは常にウルフ・ラーセン*みたいな暴君で、とんでもない乱暴者なので、乗組員はみな長続きしないと報じられた。実際に殴ったのは一度だけだ。船長がコックを乱暴に扱ったからだ。この船長は経歴を詐称して乗りこんできたとわかったので、フィジーで解雇した。チャーミアンとぼくは運動をかねてボクシングをしたが、どちらも誰かを本気で殴ったことなどない。

  • ウルフ・ラーセンは、ジャック・ロンドンの海洋冒険を描いた大作『海の狼』の主人公で、帆船ゴースト号を暴力で支配する船長である。

この航海は、自分たちの楽しみのために発想したものだ。
スナーク号を建造したのはぼくだし、費用はすべてぼくが支払った。ぼくはある雑誌と三万五千語の航海記を書く契約を結んだ。稿料はそれまで書いていた原稿と同じだ。
雑誌はすぐに、ぼくを世界一周に派遣すると宣伝した。潤沢な資金を持つ雑誌だった。仕事でスナーク号と取引をした誰もが、この雑誌なら負担してくれるだろうと、三倍の値段を吹っかけた。あげく、南太平洋の島々にまでこの神話が伝わっていて、ぼくはそれに応じた割高の料金を払った。
航海を終えた今でも、「雑誌が経費を払い、ジャック・ロンドンはこの航海でひと財産つくった」と誰もが信じこんでいる。ああいう派手な宣伝の後では、航海すべてを自分の楽しみのためだけにやったのだと理解してもらうのは難しい。
ぼくはオーストラリアで入院した、病院で五週間すごした。それからホテルで五カ月も療養した。
悩みの種だった両手の病気は、オーストラリアの専門家の手にも終えなかった。医学文献にも記載されていないのだ。こんな症例はどこにも報告されていない。症状は両手から両足にひろがっていき、子供同然に、まったく力が出せなくなることもあった。大きさで言うと、通常の二倍くらいにふくれたりもした。同時に七カ所で皮膚が死んで皮がむけた。足指の爪の厚みが二十四時間で長さと同じくらいにもなった。それをヤスリで削り落としても、また二十四時間すると、内側から前と同じ厚さの爪が生えてきた。
オーストラリアの専門家たちは、この病気は非寄生性で、慎重に扱わなければならないということで意見は一致したが、いっこうに改善しないので、そのまま航海を続けることはできなかった。続けたとしても、ぼくは寝床に力なく寝たきりで、両手で何かを握ることもできず、小さな揺れる船を動きまわることもできなかっただろう。
船はたくさんあるし、航海もたくさん行われているが、自分の両手や足の爪には代替品がないのだと、ぼくは自分に言い聞かせるしかなかった。気候のよいカリフォルニアに戻れば、ずっと落ち着いていられるとも考えて、納得し、こうして戻ってきたわけだ。
戻ってきてから、ぼくはすっかり回復した。
そして、自分の何が問題だったのかがわかった。
合衆国陸軍のチャールズE・ウッドラフ中佐の書いた『熱帯の太陽光が白人に与える影響』という本にめぐりあったことで、それがわかったのだ。
その後、ぼくはウッドラフ中佐にも会い、中佐も同じような症状に見舞われたことを知った。中佐自身は陸軍軍医で、フィリピンで同じような病気になったときに七名の陸軍軍医に診てもらっている。が、オーストラリアの専門家と同じようにサジを投げられてしまった。簡単に言うと、ぼくは熱帯の太陽光線による組織破壊性の疾患にかかりやすい傾向があったのだ。X線の照射を何度も受けるみたいに、ぼくの体は紫外線に痛めつけられてしまったのだ。
ちなみに航海を放棄せざるを得なかった別の病気について述べると、その一つは正常人の病気、ヨーロッパのハンセン病、聖書のハンセン病など、さまざまな呼び方をされているものだ。
本当のハンセン病とは違い、この不可解な病気については何もわかっていない。自然治癒した例は記録されているものの、この症例を治癒させたと言う医者はどこにも存在しない。
治療方法がわからないのも無理もない。なぜこの病気にかかるのか自体がわかっていないのだ。薬を使用しなくても、ただカリフォルニアの気候に満たされた環境にいただけで、ぼくの銀色がかった皮膚は消えてしまった。医者がぼくに対して持っていた唯一の希望が自然治癒の可能性だったが、ぼくはそのとおりに治ってしまった。

最後に、航海という名の試練について述べておこう。
この航海は、ぼくにとっても誰にとっても十分に楽しいものだったと言える。とはいえ、それを証言するには、ぼくらよりも適任者がいる。最初から最後まで同行した一人の女性だ。病院で、カリフォルニアに戻らなければならないとチャーミアンに告げると、彼女の眼には涙があふれた。幸福な楽しい航海を放棄するしかないと知ると、彼女は二日間ショックに打ちのめされた。
グレン・エレン(カリフォルニア州)にて
一九一一年四月七日


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立ち読み:『スナーク号の航海』(ジャック・ロンドン著) 2/5

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