人生の書 - 考える力(8) ジェームズ・アレン著

目的を実現するために思考が果たす役割

実現できることも実現できないこともすべて、自分自身の思考の直接の結果である。正しく秩序づけられている世界で均衡が失われることは全面的な崩壊を意味するので、個人の責任は絶対でなければならない。弱さと強さ、純粋さと不純さは他の誰でもなくその人自身のものである。他人ではなく自分がもたらしたものであり、それを変えることができるのは他の誰でもなく自分だけだ。自分を取り巻く条件も、他の誰でもなく自分自身のものである。苦しみや幸せはそのなかから生まれてくる。人が心に抱いている考えこそ、その人自身である。その考えを継続すれば、その自分のままでいることになる。

弱い者が自発的に助けを求めてこない限り、強い者が弱い者を助けることはできないし、その場合でも、弱い者は自分で強くならなければならない。自分自身で努力し、他の人に見いだして賞賛するような強さを自分で成長させていかなければならない。自分以外の誰も自分の置かれた条件を変えることはできないのだから。

「一人の抑圧者がいるために、多くの者がその奴隷になっている。憎むべきは抑圧する者だ」という風に考えて口にもする場合がよくある。しかし、今やそれと逆に考える傾向が増えている。つまり「従属する者が多いので、抑圧する者が存在する。あわれむべきは抑圧される側だ」と言うわけだ。真実はこうだ──抑圧する者と抑圧される者は無知という点で協力しあっており、互いに苦しませているように思えることも、実際には自分自身で苦しんでいるということなのだ。完全な知識があれば、抑圧されている者の弱さと抑圧する者が誤って適用する力には法則の作用が認められる。すなわち、完全な愛というものは両方の状態に伴う苦しみを見ても、どちらも非難しない。完全な思いやりは抑圧する側も抑圧される側もともに抱擁するのだ。

弱さを克服し、身勝手な考えを一掃した者は抑圧する側にも抑圧される側にも属さない。自由だ。

人は自分の考えを高めることによってのみ、立ち上がり克服し目的を実現することができる。思考を高めようとしなければ弱く惨めなままだ。

世俗的なことであっても人が何かを実現するにはその前に、卑屈で動物のように放縦なままではなく思考を高めていかなければならない。成功するために獣性や身勝手さをすべて断念することは、どんな手段を用いても無理かもしれない。しかし、少なくともその一部は犠牲にしなければならない。堕落した考えを持ち放縦な者は明確に考えることも論理的に計画することもできない。自分の隠された資質を見いだすことも開発することもできないし、約束することもできないだろう。自分の考えを勇気をもって制御しなければ、自分の周囲の出来事をコントロールし、本気で責任をとることもできず、独立して行動し自分を律するのには向いていない。そういう人は自分が選んだ考えが足かせになるだけだ。

犠牲がなければ進歩も目的の実現もありえないし、世俗的な成功は自分の混乱した動物のような思考を犠牲にし、自分の精神を自分の計画の展開に集中させ、志と自立を強化しようという決意のほどで測ることができるだろう。高尚な考えを持ち勇敢で公正で高潔な人になるほど、成功は大きくなる。祝福され、業績も永続する。

世界は表面上は欲深い人間、不正直な人間、意地の悪い人間に好意を示すように見えるかもしれないが、そうではない。正直な者、寛大な者、高潔な者にこそ手を差しのべるのだ。時代を問わず、偉大な指導者たちはこのことをさまざまな形で宣言しており、それを証明し知るために、人は自分の思考をさらに高めることで自分自身をもっと高潔にすべく努力せざるをえない。

知的実現は知識の探求、あるいは人生や自然における美と真実の探求にささげられた思いの結果である。そのような実現は虚栄心や野心と結びついている場合もあるが、そういう特性の結果というのではなく、長くつらい努力や純粋で利他的な思考の当然の結果なのである。

精神的実現は、聖なる願望が成就したものである。たえず寛大で気高い心で生き、純粋で利他的なすべてについて思案する者は、太陽が天頂に達し月が満ちるように確実に、賢明で高貴な人格者となり、影響力を持ち祝福を受けるところにまで上り詰める。

どのような種類であっても目的の実現は努力の冠、思考の王冠である。自己管理、決意、純粋さ、公正さ、正しい方向づけがなされた考え方に助けられて、人は上昇していく。獣性、怠惰、不道徳、腐敗、思考の混乱により、人は下降していく。

世間でいう大いなる成功をおさめ、精神世界で非常に気高いところまで上り詰めることもあれば、傲慢で自分勝手で堕落した思考を容認し、それにとらわれることで、弱さと悲惨さへと落ちていくこともある。

正しい思考で到達する勝利は用心深く気を配ることによってのみ維持できる。成功が確実だと思えば、多くの者は気をゆるめ、その結果として急速に失敗へと落ちていく。

目的の実現はすべて、ビジネスであろうが知的または精神的世界においてであろうが、間違いなく方向性を持った思考の結果であり、同じ法則に支配され、同じ方法によるものである。唯一の違いは、実現すべき目的にある。

ほとんど何も犠牲にしなければ達成されるものもほとんどない。多くを達成する者は多くを犠牲にしなければならない。非常に多くを実現する者は非常に多くの犠牲を払わなければならない。

人生の書 - 考える力(7) ジェームズ・アレン著

思考と目的
思考が目的と結びつくまで、何かが知的に達成されることはない。思考という船は他の多くとともに人生という大海原で「漂う」ことが許される。目的がないことは悪癖であり、破滅的状況や破壊から逃れようとする者はこのような漂流を続けてはならない。

自分の人生で軸になる目的がない者はたやすく心配や不安やトラブル、自己憐憫の餌食となるが、そのすべては弱さを示している。そして、そのことで意図的に計画された原罪のように(さまざまな経路を通って)失敗や不幸、喪失へと導かれていく。というのも、弱さは力がものをいう世界では生き残れないからだ。

人は自分の心のうちに正当な目的を抱き、その実現を目指すべきである。この目的を自分の思考の中心点にすべきだ。これはその時点におけるその人の性質に応じて精神的な理想という形をとる場合もあれば、世俗的な目標である場合もあるが、いずれにしても、自分が定めた目的に自分の思考の焦点を確実に合わせておく必要がある。自分の目的を自分の最高の義務とし、刹那的に空想やあこがれ、想像にふけったりせず、その実現に向けて専心すべきである。これが自己管理と思考を集中させる王道である。目的の実現に何度か失敗したとしても(弱さを克服するまで必然的にそうなるはずだが)、それで得た人格の強靭さがその人が本当に成功したかの尺度となり、それが将来の力や勝利への新しい出発点となるだろう。

偉大な目的を認識する準備ができていない人は、課題がどんなにささいなことに思えたとしても、まず自分がすべきことをきちんとやり遂げようと心がけるべきである。そうすることによってのみ、考えをまとめて集中させることができるし、解決策やエネルギーを得ることができる。これができれば実現できないことは何もない。

最も弱い魂でも、自己の弱さを知り、努力と実践によって強く成長するという真実を信じていれば、そう確信して奮闘し、努力を続け、我慢を重ね、強靭さを加えていけば成長がとまることはないし、ついには神のように強くなるだろう。

体が弱い人が慎重かつ忍耐強くトレーニングすれば自分を強くできるように、心が弱い人は、正しい考え方を練習することで自分自身を強くすることができる。

目的のない状態と弱さを捨て、目的を持った思考を開始するのは、失敗は目的を実現するための通過点の一つにすぎないと認識し、すべての条件を自分のために役立つようにし、不安を抱かず強い気持ちで試行し、うまく実現してしまうような強い人々の仲間に入るということである。

自分の目的を心に描いている人は、脇見をせず、目的を実現するための道筋を心のなかに描く必要がある。疑いや恐れは徹底的に排除すべきである。そういうものは、努力というまっすぐな道を分断し、曲がりくねったものとし、無駄で無用なものとする崩壊の要因である。疑いや不安からは何も達成されず、何かが実現することは決してなく、常に失敗へと導かれる。疑いや不安が忍びこんでくると、目的やエネルギー、行動力、強い考えはすべて中断させられてしまう。

行動しようという意思は、自分ならできるということを知ることから生まれてくる。疑いや恐れはそれを知ることを妨げてしまう。疑いや恐れを排除せず野放しにしておく者は挫折への道を歩いていくことになる。

疑いや恐れを克服する者は、失敗も克服する。自分の考えをすべて力と結びつけ、あらゆる困難に勇敢に立ち向かい、うまく克服してしまう。目的がそれにふさわしく植えつけられることで、花が咲き、地面に決して落ちることのない果実が実るのである。

恐れのない、目的と結びついた思考が創造的な力となる。このことを知っていれば、考えがぐらついたり心が動揺したりすることはなく、より高くより強いものになることができる。これを実践する者は、自分の精神力を自覚し知性を活用できるようになる。

人生の書 - 考える力(6) ジェームズ・アレン

健康と体に対する心の影響
体は心の召使いである。意図して選択されたのか自動的に示されたのかを問わず、体は心の働きに従属する。よこしまな考えを命じられると、体はすぐに体調をくずし弱ってしまうし、喜びや美しい考えに命じられると、はつらつとし美しくなっていく。

病気と健康は、その人を取り巻く外的状況と同様に、心のあり方に根ざしている。病的な考えは病的な体となって自己表現される。恐怖は銃弾のようにあっというまに人を殺してしまうことが知られているし、緩慢ではあっても着実にたえず何千人もの人々がそれで死亡している。病気におびえて暮らしていれば病気になってしまう。心配ごとはすぐに体全体に現れるし、病気への扉が開かれたままになってしまう。不純な考えは、肉体的に耽溺していなくても、すぐに神経系を損なってしまう。

強くて純粋で幸福な考えは体に生命力と光輝をもたらす。体は繊細で柔軟な楽器であり、感銘を受けた考えにはすぐに反応するし、そうした習慣となっている考え方が、良くも悪くも、体に影響を与えるのだ。

あいまいな考えにひたっている限り、不純で毒された血液が体内を流れ続けることになる。清浄な心から清浄な生活や清浄な体が生み出される。汚れた心は、汚された生活や腐敗した体へとつながる。思考は行動や生活、兆候の前提としてあるので、泉を純粋にすれば、すべてが純粋になる。

食生活を変えても考え方を変える助けにはならない。人が自分の考えを純化すれば、もはや不純な食べ物を欲しなくなる。

クリーンな思考はクリーンな習慣を作る。いわゆる体を洗わない聖人は聖人ではない。心を強化し浄化する者には、悪性の病原菌を考慮する必要もない。

体を完全なものにするには、心を守ることだ。体を新しくするには、心を美しくすることだ。悪意やねたみ、失意、意気消沈した考えは体から健康と光輝と奪いとってしまう。不機嫌な顔は偶然にできるものではない。不機嫌な考えで作られるのだ。顔を損なってしまう皺は、愚行や激情、自尊心のためにきざみこまれる。

私は聡明で少女のように無邪気な九十六歳の女性を知っている。また、中年だが顔が歪んでしまった男性も知っている。一方は楽しくて明るい心性の結果だし、他方は激情と不満が作り出したものなのだ。

空気や日光が自由に自室に入りこめるようにしない限り、楽しく健康に良い住居を持つことはできない。喜びや善意、静穏な考えが心の中に自由に入れるようにしたことの結果としてのみ、強い体と明るく楽しく穏やかな表情が生まれてくるのだ。

老人の顔には感情によってできた皺がある。強くて純粋な心性による皺もあれば、激情にかられてきざみこまれた皺もある。それを区別できない人がいるだろうか? 正しく生きた人にとって、年を重ねるというのは、沈んでいく夕日のように平穏で落ち着いた、やさしく熟成していくことである。私は最近、死の床にある哲学者を見舞ったことがある。氏は年齢はともかくとして老けこんではいなかった。生前の生き方と同じように、心地よく穏やかに逝かれた。

体の悪いところを治すのに、明るい考え方にまさる医者はいない。苦悩や悲しみの影を消すのに、親切な心に比肩できるほど慰めになるものもない。たえず憎悪や冷笑、疑念、嫉妬に満ちた感情を抱えて暮らすことは、自分で作った幽閉の穴に閉じこめられるようなものだ。しかし、すべてをよい方に考え、万事に朗らかで、よい点を見つけようと根気強く学ぼうと心がけること――そのような利他的な思考こそ、まさに天国の門の入口へと導くものであり、すべての生き物に対して穏やかな心で日々暮らすことで、その心の持ち主は大いなる安らぎを得るだろう。