人生の書 - 考える力(8) ジェームズ・アレン著

目的を実現するために思考が果たす役割

実現できることも実現できないこともすべて、自分自身の思考の直接の結果である。正しく秩序づけられている世界で均衡が失われることは全面的な崩壊を意味するので、個人の責任は絶対でなければならない。弱さと強さ、純粋さと不純さは他の誰でもなくその人自身のものである。他人ではなく自分がもたらしたものであり、それを変えることができるのは他の誰でもなく自分だけだ。自分を取り巻く条件も、他の誰でもなく自分自身のものである。苦しみや幸せはそのなかから生まれてくる。人が心に抱いている考えこそ、その人自身である。その考えを継続すれば、その自分のままでいることになる。

弱い者が自発的に助けを求めてこない限り、強い者が弱い者を助けることはできないし、その場合でも、弱い者は自分で強くならなければならない。自分自身で努力し、他の人に見いだして賞賛するような強さを自分で成長させていかなければならない。自分以外の誰も自分の置かれた条件を変えることはできないのだから。

「一人の抑圧者がいるために、多くの者がその奴隷になっている。憎むべきは抑圧する者だ」という風に考えて口にもする場合がよくある。しかし、今やそれと逆に考える傾向が増えている。つまり「従属する者が多いので、抑圧する者が存在する。あわれむべきは抑圧される側だ」と言うわけだ。真実はこうだ──抑圧する者と抑圧される者は無知という点で協力しあっており、互いに苦しませているように思えることも、実際には自分自身で苦しんでいるということなのだ。完全な知識があれば、抑圧されている者の弱さと抑圧する者が誤って適用する力には法則の作用が認められる。すなわち、完全な愛というものは両方の状態に伴う苦しみを見ても、どちらも非難しない。完全な思いやりは抑圧する側も抑圧される側もともに抱擁するのだ。

弱さを克服し、身勝手な考えを一掃した者は抑圧する側にも抑圧される側にも属さない。自由だ。

人は自分の考えを高めることによってのみ、立ち上がり克服し目的を実現することができる。思考を高めようとしなければ弱く惨めなままだ。

世俗的なことであっても人が何かを実現するにはその前に、卑屈で動物のように放縦なままではなく思考を高めていかなければならない。成功するために獣性や身勝手さをすべて断念することは、どんな手段を用いても無理かもしれない。しかし、少なくともその一部は犠牲にしなければならない。堕落した考えを持ち放縦な者は明確に考えることも論理的に計画することもできない。自分の隠された資質を見いだすことも開発することもできないし、約束することもできないだろう。自分の考えを勇気をもって制御しなければ、自分の周囲の出来事をコントロールし、本気で責任をとることもできず、独立して行動し自分を律するのには向いていない。そういう人は自分が選んだ考えが足かせになるだけだ。

犠牲がなければ進歩も目的の実現もありえないし、世俗的な成功は自分の混乱した動物のような思考を犠牲にし、自分の精神を自分の計画の展開に集中させ、志と自立を強化しようという決意のほどで測ることができるだろう。高尚な考えを持ち勇敢で公正で高潔な人になるほど、成功は大きくなる。祝福され、業績も永続する。

世界は表面上は欲深い人間、不正直な人間、意地の悪い人間に好意を示すように見えるかもしれないが、そうではない。正直な者、寛大な者、高潔な者にこそ手を差しのべるのだ。時代を問わず、偉大な指導者たちはこのことをさまざまな形で宣言しており、それを証明し知るために、人は自分の思考をさらに高めることで自分自身をもっと高潔にすべく努力せざるをえない。

知的実現は知識の探求、あるいは人生や自然における美と真実の探求にささげられた思いの結果である。そのような実現は虚栄心や野心と結びついている場合もあるが、そういう特性の結果というのではなく、長くつらい努力や純粋で利他的な思考の当然の結果なのである。

精神的実現は、聖なる願望が成就したものである。たえず寛大で気高い心で生き、純粋で利他的なすべてについて思案する者は、太陽が天頂に達し月が満ちるように確実に、賢明で高貴な人格者となり、影響力を持ち祝福を受けるところにまで上り詰める。

どのような種類であっても目的の実現は努力の冠、思考の王冠である。自己管理、決意、純粋さ、公正さ、正しい方向づけがなされた考え方に助けられて、人は上昇していく。獣性、怠惰、不道徳、腐敗、思考の混乱により、人は下降していく。

世間でいう大いなる成功をおさめ、精神世界で非常に気高いところまで上り詰めることもあれば、傲慢で自分勝手で堕落した思考を容認し、それにとらわれることで、弱さと悲惨さへと落ちていくこともある。

正しい思考で到達する勝利は用心深く気を配ることによってのみ維持できる。成功が確実だと思えば、多くの者は気をゆるめ、その結果として急速に失敗へと落ちていく。

目的の実現はすべて、ビジネスであろうが知的または精神的世界においてであろうが、間違いなく方向性を持った思考の結果であり、同じ法則に支配され、同じ方法によるものである。唯一の違いは、実現すべき目的にある。

ほとんど何も犠牲にしなければ達成されるものもほとんどない。多くを達成する者は多くを犠牲にしなければならない。非常に多くを実現する者は非常に多くの犠牲を払わなければならない。

人生の書 - 考える力(7) ジェームズ・アレン著

思考と目的
思考が目的と結びつくまで、何かが知的に達成されることはない。思考という船は他の多くとともに人生という大海原で「漂う」ことが許される。目的がないことは悪癖であり、破滅的状況や破壊から逃れようとする者はこのような漂流を続けてはならない。

自分の人生で軸になる目的がない者はたやすく心配や不安やトラブル、自己憐憫の餌食となるが、そのすべては弱さを示している。そして、そのことで意図的に計画された原罪のように(さまざまな経路を通って)失敗や不幸、喪失へと導かれていく。というのも、弱さは力がものをいう世界では生き残れないからだ。

人は自分の心のうちに正当な目的を抱き、その実現を目指すべきである。この目的を自分の思考の中心点にすべきだ。これはその時点におけるその人の性質に応じて精神的な理想という形をとる場合もあれば、世俗的な目標である場合もあるが、いずれにしても、自分が定めた目的に自分の思考の焦点を確実に合わせておく必要がある。自分の目的を自分の最高の義務とし、刹那的に空想やあこがれ、想像にふけったりせず、その実現に向けて専心すべきである。これが自己管理と思考を集中させる王道である。目的の実現に何度か失敗したとしても(弱さを克服するまで必然的にそうなるはずだが)、それで得た人格の強靭さがその人が本当に成功したかの尺度となり、それが将来の力や勝利への新しい出発点となるだろう。

偉大な目的を認識する準備ができていない人は、課題がどんなにささいなことに思えたとしても、まず自分がすべきことをきちんとやり遂げようと心がけるべきである。そうすることによってのみ、考えをまとめて集中させることができるし、解決策やエネルギーを得ることができる。これができれば実現できないことは何もない。

最も弱い魂でも、自己の弱さを知り、努力と実践によって強く成長するという真実を信じていれば、そう確信して奮闘し、努力を続け、我慢を重ね、強靭さを加えていけば成長がとまることはないし、ついには神のように強くなるだろう。

体が弱い人が慎重かつ忍耐強くトレーニングすれば自分を強くできるように、心が弱い人は、正しい考え方を練習することで自分自身を強くすることができる。

目的のない状態と弱さを捨て、目的を持った思考を開始するのは、失敗は目的を実現するための通過点の一つにすぎないと認識し、すべての条件を自分のために役立つようにし、不安を抱かず強い気持ちで試行し、うまく実現してしまうような強い人々の仲間に入るということである。

自分の目的を心に描いている人は、脇見をせず、目的を実現するための道筋を心のなかに描く必要がある。疑いや恐れは徹底的に排除すべきである。そういうものは、努力というまっすぐな道を分断し、曲がりくねったものとし、無駄で無用なものとする崩壊の要因である。疑いや不安からは何も達成されず、何かが実現することは決してなく、常に失敗へと導かれる。疑いや不安が忍びこんでくると、目的やエネルギー、行動力、強い考えはすべて中断させられてしまう。

行動しようという意思は、自分ならできるということを知ることから生まれてくる。疑いや恐れはそれを知ることを妨げてしまう。疑いや恐れを排除せず野放しにしておく者は挫折への道を歩いていくことになる。

疑いや恐れを克服する者は、失敗も克服する。自分の考えをすべて力と結びつけ、あらゆる困難に勇敢に立ち向かい、うまく克服してしまう。目的がそれにふさわしく植えつけられることで、花が咲き、地面に決して落ちることのない果実が実るのである。

恐れのない、目的と結びついた思考が創造的な力となる。このことを知っていれば、考えがぐらついたり心が動揺したりすることはなく、より高くより強いものになることができる。これを実践する者は、自分の精神力を自覚し知性を活用できるようになる。

人生の書 - 考える力(6) ジェームズ・アレン

健康と体に対する心の影響
体は心の召使いである。意図して選択されたのか自動的に示されたのかを問わず、体は心の働きに従属する。よこしまな考えを命じられると、体はすぐに体調をくずし弱ってしまうし、喜びや美しい考えに命じられると、はつらつとし美しくなっていく。

病気と健康は、その人を取り巻く外的状況と同様に、心のあり方に根ざしている。病的な考えは病的な体となって自己表現される。恐怖は銃弾のようにあっというまに人を殺してしまうことが知られているし、緩慢ではあっても着実にたえず何千人もの人々がそれで死亡している。病気におびえて暮らしていれば病気になってしまう。心配ごとはすぐに体全体に現れるし、病気への扉が開かれたままになってしまう。不純な考えは、肉体的に耽溺していなくても、すぐに神経系を損なってしまう。

強くて純粋で幸福な考えは体に生命力と光輝をもたらす。体は繊細で柔軟な楽器であり、感銘を受けた考えにはすぐに反応するし、そうした習慣となっている考え方が、良くも悪くも、体に影響を与えるのだ。

あいまいな考えにひたっている限り、不純で毒された血液が体内を流れ続けることになる。清浄な心から清浄な生活や清浄な体が生み出される。汚れた心は、汚された生活や腐敗した体へとつながる。思考は行動や生活、兆候の前提としてあるので、泉を純粋にすれば、すべてが純粋になる。

食生活を変えても考え方を変える助けにはならない。人が自分の考えを純化すれば、もはや不純な食べ物を欲しなくなる。

クリーンな思考はクリーンな習慣を作る。いわゆる体を洗わない聖人は聖人ではない。心を強化し浄化する者には、悪性の病原菌を考慮する必要もない。

体を完全なものにするには、心を守ることだ。体を新しくするには、心を美しくすることだ。悪意やねたみ、失意、意気消沈した考えは体から健康と光輝と奪いとってしまう。不機嫌な顔は偶然にできるものではない。不機嫌な考えで作られるのだ。顔を損なってしまう皺は、愚行や激情、自尊心のためにきざみこまれる。

私は聡明で少女のように無邪気な九十六歳の女性を知っている。また、中年だが顔が歪んでしまった男性も知っている。一方は楽しくて明るい心性の結果だし、他方は激情と不満が作り出したものなのだ。

空気や日光が自由に自室に入りこめるようにしない限り、楽しく健康に良い住居を持つことはできない。喜びや善意、静穏な考えが心の中に自由に入れるようにしたことの結果としてのみ、強い体と明るく楽しく穏やかな表情が生まれてくるのだ。

老人の顔には感情によってできた皺がある。強くて純粋な心性による皺もあれば、激情にかられてきざみこまれた皺もある。それを区別できない人がいるだろうか? 正しく生きた人にとって、年を重ねるというのは、沈んでいく夕日のように平穏で落ち着いた、やさしく熟成していくことである。私は最近、死の床にある哲学者を見舞ったことがある。氏は年齢はともかくとして老けこんではいなかった。生前の生き方と同じように、心地よく穏やかに逝かれた。

体の悪いところを治すのに、明るい考え方にまさる医者はいない。苦悩や悲しみの影を消すのに、親切な心に比肩できるほど慰めになるものもない。たえず憎悪や冷笑、疑念、嫉妬に満ちた感情を抱えて暮らすことは、自分で作った幽閉の穴に閉じこめられるようなものだ。しかし、すべてをよい方に考え、万事に朗らかで、よい点を見つけようと根気強く学ぼうと心がけること――そのような利他的な思考こそ、まさに天国の門の入口へと導くものであり、すべての生き物に対して穏やかな心で日々暮らすことで、その心の持ち主は大いなる安らぎを得るだろう。

人生の書 - 考える力(5) ジェームズ・アレン

この真実の証明はすべての人のうちにあり、従って、系統だった内省と自己分析で容易に調べられる。人が考え方を大きく変えると、自分の人生における物質的条件に影響が出て急速に変容していくことに驚くことだろう。人は自分の内心を秘密にできると思っているが、それは無理だ。人の考えは習慣という形で結晶化し、その習慣が自分を取り巻く状況となっていくのである。堕落した考えは酩酊や好色という習慣として結晶化し、それは貧困や疾病という外的状況になっていく。種類の如何を問わず、不純な考えは無気力や混乱した習慣として結晶化し、散漫で不運な外的状況につながっていく。不安や疑念、優柔不断といった考えは、弱くて臆病で決断力がないという習慣として結晶化し、失敗や極貧、奴隷的依存関係という外的状況につながっていく。怠惰な思考は不潔で不誠実な習慣として結晶化し、悪辣で極貧状態という外的状況につながる。憎しみに満ちて人を非難するような思考は告発と暴力という習慣として結晶化し、それは傷害や虐待という外的状況になっていく。種類の如何を問わず、自己中心的な考えは自分探しの習慣として結晶化し、それは多かれ少なかれ苦悩という外的状況につながる。一方、種類の如何を問わず、美しい考えは優美で温和な習慣に結晶化し、穏やかで明朗な外的状況につながる。純粋な考えは節度と自己管理という習慣に結晶化し、それは平穏や平和という外的状況になっていく。勇気、自律、決断力に満ちた考えは勇気ある習慣として結晶化し、成功や豊かさ、自由といった外的状況につながっていく。エネルギッシュな考えは潔癖で勤勉という習慣に結晶化し、快活な外的状況につながっていく。寛大で寛容な考えは穏やかな習慣として結晶化し、それは保護し腐敗を防止する外的状況へとつながっていく。愛情に満ちた利他的な考えは他人に対する無私無欲の習慣として結晶化し、確実かつ永続的な繁栄と真の豊かさという外的状況へとつながっていく。

良かれ悪しかれ、自分の内部に存続している一定の思考の連鎖は、その結果として、その人の性格や外的状況となって生じざるをえない。人は自分の外的状況を直接に選択することはできないが、自分の考えを選ぶことで間接的に自分を取り巻く外的状況を確実に作りあげることはできる。

自然は、人が自発的に取り入れようとしている考え方を満足させようとし、良い考えも悪い考えもいち早く表面に出てくるような機会を与えてくれる。

罪深い考えを放棄すれば、その人に対する世界はすべて優しくなり助けようとしてくれる。自分の弱くよこしまな考えを押さえこめれば、その強い意志を助けてくれる機会がいたるところに出現するだろう。よい考えを持つよう心がければ、困難な運命がその人を不幸や恥ずかしい思いに縛りつけるようなことはなくなっていく。世界はその人を映し出す万華鏡であり、成功したあらゆる瞬間にその人に示される、絶えず変化する色彩の組み合わせは、その人の不断の思考をこの上なく見事に調整した絵画なのである。
君は自分がなると思っているものになるだろう
失敗したのであれば、何が誤っていたかを見つけよう
「環境」という惨めな言葉
とはいえ、精神はそれを冷笑できるし、それから自由になれる

環境は、時間を使いこなし、空間を征服する
偶然という名の、自慢たらたらのペテン師
暴君のような外的状況に命じて
王冠を奪い、召使いの立場におとしめる

人間の意思は、見えないものを押し進め
不死の魂の成果として
目標に至る道を切り開くことができる
花崗岩の壁を貫いて

遅れてもいらだたず
理解している人のように待つことだ
精神が立ち上がり命じるとき
神々はそれに従う用意ができている

人生の書 - 考える力(4) ジェームズ・アレン

考える力(4)

とはいえ、自分を取り巻く状況は非常に複雑で、思考はとても深いところまで根を張り、幸福の条件は人によって大きく異なってもいるため、その人の魂全体については(本人にはわかっていたとしても)その人の人生の外的態様だけでは他者には判断できない。ある方向では正直であるのに貧困に苦しんでいる人がいる一方で、ある方向では不正直であるのに裕福な人がいるかもしれない。とはいえ、よくあるように、そこから、正直だから失敗し不正直だから成功したという結論を導きだして判断するのは皮相的にすぎる。というのも、そういうとらえ方自体が不正直イコール腐敗、正直イコール善という仮定に基づいているためである。より深い知識と幅広い経験という視点から見れば、そのような判断は誤りだとわかる。不正直な人にも他者にはない立派な長所があるかもしれないし、正直な人であっても他者にはない悪いところがあるかもしれない。正直な人は自分の正直な考え方のもたらす結果を刈りとって行動するし、不正直な人も同様に自分自身にとっての苦しみと幸福を得るのだ。

自分は自分の美徳のために苦しんでいると思いこむのは虚栄心を満足させてくれるが、人は自分の精神から不快な、苦い、不純な考えすべてを根絶し、自分の魂から罪深い汚点すべてを洗い流してはじめて、自分の苦しみは自分の悪癖ではなく自分における善の結果であり、最高の完全性が自分の精神と生活の中で機能していること、つまり、絶対的に正しく、悪に対するに善をもってし、善に対するに悪をもってする偉大な法則というものを発見し、自分はまだそこにはとても到達していないが、その途上にあると宣言できるようになるのだ。そのことをわかった上で自分の過去の無知と盲目とを振り返ってみて、自分の人生が現在においても過去においても常に正しく命じられたものであり、善も悪も含めて自分の過去の体験はすべて、進化しているもののまだ発展途上にあることを示していると知るに至るわけだ。

よい思考と行動が悪い結果を生じさせることはない。悪い思考と行動がよい結果を生じさせるということもない。つまり、トウモロコシからはトウモロコシ以外の何かが生じることはないし、イラクサからはイラクサ以外の何も生まれない。人は自然界においてはこの法則を理解している(この作用は単純で例外がない)が、精神や倫理の世界でそれを納得している者はほとんどいないし、従って受け入れるようともしない。

苦しみは常にある方向における誤った思考の結果である。個人は自分自身と調和し、自分という存在の法則に従っている。無益で不純なものすべてを浄化し焼きつくすことが、苦しみを最大限に活用する唯一の道である。浄化すれば苦しみは消えていく。不純物を取り去った後で金を燃やそうとしても無駄なように。完璧なまでに浄化された賢明な存在には苦しみ自体がないのだ。

人が苦しみと遭遇する外的状況は、その人が自身の精神と調和していない結果である。人が祝福される外的状況は、その人が自身の精神と調和している結果である。物質的富ではない祝福は、正しい思考で得られる。物質的富が不足しているわけではない不幸は、悪い思考から来る。呪われているのに金持ちの人がいるかもしれない。祝福されているのに貧しい人がいるかもしれない。祝福と物質的富は、富が正しく賢明に用いられたときに結びつくだけである。貧者が自分の運命について主に不当に課せられたとみなしている限り、不幸になるだけだ。

貧困と放縦は不幸の両極端である。どちらも同じように不自然で、乱れた精神の結果である。人は、幸福で健康で豊かな存在になるまでは、正しい状況にないとも言える。幸福、健康、豊かさは、自分の精神と外的状況とがうまく調和している結果である。

人は泣き言を言ったり悪態をついたりするのをやめ、自分の人生を制御している隠された正義を探し求めるようになったときにのみ、人として存在するようになる。その制御している要素に自分の精神を適応させ、自分の置かれた条件を理由に他者を非難するのをやめ、強く気高い考えを自分自身に作りあげていく。自分を取り巻く状況に文句を言うことをやめ、さらに急速な進歩に役立つものとして、自分自身のうちに隠れている力と可能性を発見する手段として、それを活用するようになるのだ。

万物を支配する原則は、混乱ではなく法則である。生命という魂と物質は、不正義ではなく正義によるのである。精神という政府を形成し動かす力となるのは腐敗ではなく公正である。従って、万物が正しいと知るには、人は自分自身を正しくせざるをえない。自分を正しくしていく過程で、物事や他の人々に対する自分の考えが変わるにつれて、自分にとって物事や他の人々も変わっていくのを発見することになるのだ。

人生の書 - 考える力(3) ジェームズ・アレン著

人は自分のほしいものを引きつけるのではなく、自分自身が引きつけられているのである。思いつきや妄想、野心は一歩ごとに外的環境に妨げられたりもするが、心の奥に秘めた考えや欲望は十分に食料を与えられて増殖し、人を汚れさせたり清浄にしたりしていく。「われわれに結果をもたらす神の手」はわれわれ自身の内にあり、まさに自分自身で作り出しているのである。人は自分自身にのみ束縛される。思考と行動は運命の看守なのだ――その人の根底にあって監禁もすれば、自由の天使となって高貴な存在として開放したりもする。人は自分が願望し懇願するものを得るのではなく、正当に得られるものを得るのだ。願望や懇願は、自分自身の思考や行動と調和したときにのみ満たされ報いられるのである。

この真実に照らしてみれば、「自分を取り巻く状況と闘う」というのは何を意味するのか? それは、自分の心の中で常にその原因を養い保護しているくせに、原因の見えない結果に対して常にいらだっている、ということなのだ。その原因は、自覚された悪徳や無意識の弱さの形をとる場合もあるが、何であれ、それを心中に包含している人の努力を断固として妨害し、声高に救済を求めて叫ぶのだ。

人は自分を取り巻く状況を改善しようと願うが、自分自身を向上させようとはしない。だから内なる自分自身に拘束されたままなのだ。自分に与えられた苦難に尻ごみしない人は、心に定めた目標を必ず実現させる。これは天国においても地上においても真実である。金もうけだけが唯一の目的だという人でも、その目的を実現するには個人的に大きな犠牲を払うことを覚悟しなければならない。どうすれば、強固で安定した人生を実現できるのか?

ここに悲惨なほど貧しい者がいる。自分を取り巻く状況を非常に杞憂し、安寧を得るには改善が必要である。だが、彼は常に仕事を人に押しつけ、安月給だから雇用主を欺くのも当然だと思いこんでいる。こんな人は、真の繁栄の基礎となっている原則の最もシンプルな基本すら理解していないことになる。自分の不幸な境遇から抜け出せないだけでなく、怠惰やごまかし、卑劣な考えに安住し、それを行動に移すことで、自分自身にさらに不幸を引きよせているのだ。

ここに暴飲暴食の結果として、苦しくて頑固な病気にかかった金持ちがいる。彼は病気を直すためならばくだいな金も喜んで払うつもりだが、自分の食欲を犠牲にするつもりはない。豪華で自然に反した食事が好きだという欲望に身をゆだねる一方、健康も保ちたいと思っている。そんな人が健康でいられるはずがない。健康な生活で第一となる原則を、まだ学んでいないからだ。

ここに正規の賃金を支払わずに済ませられる歪んだ策を弄している雇用主がいる。もっともうけようとして、雇っている人々の給料を減らしたりする。ところが、そういう男が繁栄することはありえない。名声と資産の両方で破産したとしても、そういう人は、自分自身がそうした状況の唯一の張本人であるとも知らず、自分を取り巻く状況のせいにするのだ。

ここで三つの例を紹介したのは、人は自分を取り巻く状況の原因を(ほとんどの場合、無意識に)自分で作りだしているという真実を理解してもらうためである。よい結果を得たいと思っている一方で、その結果と相容れない考えや欲望に身をゆだねることで、その結果が達成されるのをたえず自分で邪魔しているわけだ。こういう状況はいたるところにあり、ほぼ無限に変化しうるのだが、読者が自分の心と生活において考える力の持つ法則による行動を追跡しようと思えばできるように、それが必然というわけではない。単なる外的な事実は推論する根拠にもなりえない。

人生の書 - 考える力(2) ジェームズ・アレン著

心が自分を取り巻く状況に及ぼす効果

人の心は庭にたとえられる。知的に耕すこともできるし、荒れるにまかせておくこともできる。だが、耕すにしろ放置するにしろ、それによって必然的に果実が生じてくる。有益な種子をまかなければ、無用な雑草の種子が落ち、はびこり続けることになる。

庭師が土地を耕し、雑草が生えないようにして必要な花を咲かせ果実を実らせるように、人は自分の心という庭に気を配り、誤った無益でよこしまな考えをすべて排除し、正しく有益で純粋な思考という花や果実を実現させるために耕すのである。そうしていくことで、人は遅かれ早かれ自分が自分の心の主人であること、自分の人生を導く者であることを発見するのだ。また、心の中で思考の法則について知り、心がいかに力を持ち、精神的要素がいかに自分の人格や状況、運命の形成に作用しているかを正確に理解するようになる。

心と人格は一体のものであり、人格は環境や状況を通してのみ明確に自己実現され発見できるようになる。それによって、人の人生をとりまく外的条件は常にその人の内なる心の状態と調和した関係にあることがわかるだろう。このことは、どんなときでも人を取り巻く状況がその人の人格全体を示しているという意味ではなく、そのような自己を取り巻く状況はその時点において、その人の発展に必要不可欠な自分自身の心の動きと密接に関連しているということなのである。

人はすべて、自分という存在の法則に従ったところにいる。すなわち、自分の人格を作り上げている心そのものが人をその場所に導いたのであり、人の人生において偶然の要素はなく、すべて誤ることのない法則の結果である。このことは、自分を取り巻く状況に満足している者と同じく、自分が周囲と「調和していない」と感じる者にとっても当てはまる。

進歩し発展する存在として、人は自分が学び成長できる場所にいる。そうやって自分を取り巻く状況から精神的な教訓を得ていくにつれて、取り巻く状況自体も次々に過ぎ去っては変化していくのである。

自分の外にある世界に左右されると信じている限り、人は自分を取り巻く状況に振りまわされるが、自分には創造する力があり、自分の内に隠れた魂や種に対して自分を取り巻く状況から脱して成長するよう命じることができると悟ったとき、人は本来の自分自身の主人となる。

自分を管理し自浄化することを実践してきた者はすべて、自分を取り巻く状況は自分の考えから出ていると知っている。というのも、人は、自分を取り巻く状況は、自分の精神状態が変化するにつれて変化する、ということにいずれ気づくことになるからだ。だから、人が本気で自分の悪い性格を変えようと思い、それを実行し進んでいくにつれて、自分を取り巻く状況もすぐに変化していく。これは本当だ。

魂は、自分が人知れず心に抱き、愛し、恐れているものを引きつける。人は熱望している高みにまで到達することもあれば、抑えられない欲望のレベルにまで落ちていくこともある――自分を取り巻く状況とは、その人の魂が自分自身を知る手段なのである。

まかれた思考の種や、心の中に入りこみ根を張るのを認められた考えはすべて、遅かれ早かれ、自己実現し現実の行為となって花を咲かせることになるし、好機や自分を取り巻く状況という形で結実するのだ。よい考えはよい果実を実らせ、悪しき考えは悪しき果実をもたらす。

自分を取り巻く状況という外的世界は、思考という内なる世界に対して自分自身が具体化されたものであり、外部の楽しいことも不快なことも、その個人の究極の目標を作り出す要素なのだ。人は、自分で種をまいた結果としての収穫物を刈り取る者として、苦しみと喜びの両方を学ぶのである。

自分が自分を支配することを認めた心の奥にある欲望や願望、思考に従った結果として(不純な想像で人を惑わす欲望を追求し、あるいは気高く熱心に努力するという王道を確固として歩いていくことで)人は最終的に自分の人生という外的条件において自分の果実を結実させ成就させることになる。この成長と調整の法則はいたるところで起きている。

人は過酷な運命や外的状況のせいで救貧院や刑務所にやって来るのではない。卑屈な考えや根っこにある欲望という通路を通って、そこに至るのである。心のきれいな者がいきなり単なる外的な力のために犯罪に走ることはない。よからぬ考えが心の中で長い間隠れていて、機会が訪れたとき、それまでに結集していた力が露呈されたにすぎない。自分を取り巻く状況が人を創るのではない。自分を取り巻く状況は、その人がどういう人であるかを自分自身に対して明確にしてくれるだけなのだ。悪習とそれに付随する苦しみは、悪しき心と別に存在するのではないし、美徳やけがれのない幸福感は、高潔な志を引き続き耕していくことと切り離してはありえない。従って、人は、自分の思考の領主であり主人たる存在として、自分自身を創造し環境を形成し生みだしていくものなのである。出生時から人の魂は自分自身にやどり、この地上での長い旅を一歩ずつ歩んで行くことで、自分自身を明らかにするさまざまな条件を引き寄せるのだが、その自分自身というものは、その人の純粋さと不純さ、強さと弱さを反映したものなのである。

人生の書 ― 考える力(1) ジェームズ・アレン著

考える力(1)
 “AS A MAN THINKETH”

ジェームズ・アレン
『人生の書』刊行委員会編訳

ジェームズ・アレン(1864年~1912年) イギリスの作家。『「原因」と「結果」の法則』などの著作がある。

トルストイに感化された彼は、家族をともなって地方都市に隠棲し、著作に専念した。その結果、いわゆる自己啓発書の先駆けともいえる一連の作品群が生み出された。

 現代の自己啓発書の隆盛はアレンに多くを負っているが、アレンの著作と称する邦訳作品には、アレン自身の考えというよりは、論者が自分の主張の裏づけとして都合よく利用するだけだったり、原文から離れて独自の解釈を擬似宗教的に展開したものも多く、必ずしもアレン自身の著作自体が理解されているとはいいがたい状況にある。

そこで、ジェームズ・アレンの著作をできるだけ原作に忠実に訳出することで、作家への理解を深める一助になればと考えて、ここに『人生の書』として発表することにした。

なお、バルザックの『人間喜劇』が彼の作品群の総称であるように、『人生の書』はジェームズ・アレンの一連の著作の総称として、私どもが命名した。

 私どもはジェームズ・アレンの著作をできるだけ忠実に再現することに努力した。独自の解釈や論を主張する気はさらさらない。気に入るも入らないも、まったく読み手の自由である。何かのきっかけで目にとまり、運良く目を通してもらえれば、そうして、その人なりに「ふうん、こういう考えもあるのね」とでも納得してもらえれば、それで十分である。

人をその人たらしめるのは、その人の心であり、
人間とはその人の心そのものである
その人の考え方しだいで
喜びにあふれることもあれば、つらい状況に陥ることもある――
人の思いは目に見えないが、いずれ現実のものとなる。すなわち
人をとりまく環境はその人の真の姿を写す鏡なのだ。

著者のまえがき

本書は瞑想と体験の結果として生まれたものであり、世の中にあふれている思考の力についてあますところなく解説しようとするものではない。解説というよりは提案であり、本書の目的は、次の真実を発見し認識してもらうことにある。

人をその人たらしめるのは、その人自身である

その人が何を選択し何を望んでいるのかで、その人がどういう人であるかが決定される。人の内なる性格やとりまく環境を織り上げるのはその人の心であり、無知や苦痛にさいなまされるのも、喜びや幸福感に包まれるのも、その人の心によるのである。

――ジェームズ・アレン
英国イルフラクーム、
ブロードパーク・アベニューにて

考え方と人格

「その人が心の中で何を考えているかで、その人がどういう人かが決まる」という箴言は、人間という存在の全体を示しているのみならず、その人の人生をとりまく条件や環境すべてに当てはまる。その人が何を考えているかは、まさにその人自身を示しており、その人の思考の総体がその人の人格となっているのである。

植物は種子から芽が出るし、種子がなければ発芽できないように、人のあらゆる行為は目に見えない心という種子から芽を出したものであり、それがなければそういう行為は生じてこない。このことは、意図した行為と同様に、「自然」で「自然発生的」と呼ばれる行為にも等しく当てはまる。

人の行為は思考が花開いたものであり、喜びや苦しみはその果実である。このように、甘美な果実も苦い果実も、自分自身が耕し集めたものである。

心の中で何を考えているかで、どういう人間かが決まる。どういう人かは、
何を考えているかに左右され、それによって形づくられる。心中に
邪悪な考えを抱いていれば、その人には苦痛がついてまわる。
牛車で牛の背後にたえず迫っている車輪のように……
……人が純真な
思いを持ち続ければ、喜びがおとずれる
自分自身の影のように――かならずや

人は法則によって成長し、策略によって創造されるのではない。目に見える世界や物質の場合と同様に、原因と結果は思考という目に見えない領域でも絶対のものであり、それから逸脱することはない。高貴で神のような人格は善意や偶然の産物ではなく、絶えず正しい考え方を持ち続けようと努力してきたことの帰結であり、ずっと神のような考えを抱いてきたことの結果である。下劣で堕落した人格は、同様にこの作用により、絶えずいやしい考えを抱いてきた結果なのである。

人は自分自身によって作られもするし、そこなわれもする。思考という武器は、自分自身を破滅させることもあるし、自分のために喜びや強さ、平安というすばらしい住まいを建てる道具ともなる。正しい考えを選択し正しく適用することで、人は聖なる完全性にまで昇華していく。間違った考えや誤った思考に陥れば、自己を獣のレベルにまでおとしめることにもなる。この二つの両極端の間にすべての人格が存在する。人は自分自身の創造主であり主人である。

この時代になって再び光が当たられている魂に関連する美しい真実すべてのうちで、人は自分の思考の主人であり、人格をつくりあげ、条件や環境、運命を創出し形成するものである──この聖なる約束と信頼ほど、喜ばしくも実り豊かなものはない。

力、知性、愛ある存在として、自分の心の主人として、人はあらゆる状況に対する鍵を持ち、自分自身のうちに自己が望むものを思い描くことにより、それを転換させ再生させていくのである。

人は、最悪の見捨てられた状態にあっても、つねに自分自身の主人であり、自分の弱さや劣化は自分が自分の「家庭」を誤って支配した愚かな主人だからである。自己をとりまく条件について内省し、自分という存在を確立させている法則を熱心にさぐりはじめるとき、人は自分自身の賢明な主人となり、知性によりエネルギーを発揮し、自分の心を実りある問題に向けようとする。これこそ自覚した主人であり、人は自分自身のうちに思考の法則を発見することによってのみ、そうなることができる。この発見はまったく勤勉と自己分析、経験の問題である

金やダイヤモンドは熱心に探して採掘することによってのみ得られる。人は、自分の魂という鉱山を深く掘り下げていくことで、自分という存在に関連するすべての真実を見いだすことができる。自分の心の動きを観察し、支配し、変革し、それが自分や他の人々、自分の人生やそれをとりまく状況に与える影響を追跡し、理解力や知恵、力を持つ存在である自分自身を知る手段として、がまん強く実践し探求しつづけて原因と結果を関連づけ、さらに日常生活で生じるささいなことに対しても自分の経験すべてを活用していくことで、自分という人格を形成し、人生の道筋をつけ、運命を作りあげるのはその人自身であることを証明できる。この方向においてのみ「求める者は見いだし、扉はそれをたたく者に開かれる」という法則が絶対となる。忍耐、実践、絶え間ない探求によってのみ、人は知恵という神殿の扉をくぐることができるのである。