立ち読み:『スナーク号の航海』(ジャック・ロンドン著) 5/5

訳者あとがきを読む

本書はアメリカの作家ジャック・ロンドン(一八七六年~一九一六年)が三十一歳になった一九〇七年、ケッチ型帆船のスナーク号で南太平洋を航海したときの記録 The Cruise of the Snark の全訳である。
この航海は当初、数年をかけた世界一周を予定していたが、本書を読みすすめるとおわかりのように、南太平洋でさまざまな風土病や感染症などの疾病に作家自身を含めた乗組員のほとんどが苦しめられ、オーストラリアに到着したところで航海を断念している。

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作家にはイマジネーションを駆使して想像力豊かな物語をつむぎだしていくタイプと、逆に自分で見たり聞いたりした実体験に基づいて物語を構築していくタイプの作家がいる。
ジャック・ロンドンは後者である。
彼をとりまく生活や環境の変化が生み出される作品に大きな影響を与えている。

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ジャック・ロンドンは一八七六年、サンフランシスコで生まれた。
母親はフローラ・ウェルマン。父親は占星術の「教授」と呼ばれていたウィリアム・チェーニイだと「されて」いる。
二人はフローラが妊娠した当時、同棲していたが結婚はしてはおらず、フローラの自殺未遂をきっかけに、チェーニイが「フローラをはらませて捨てた」と新聞紙上でセンセーショナルに書きたてられたことから、二人は別れ、チェーニイは同地を離れている。
後年、二十一歳になったジャック・ロンドンはチェーニイに対し「自分の父親ではないか」と手紙で問い合わせている。チェーニイはフローラと同棲していたことは認めたものの、自分はインポテンツで彼女は複数の男性と交際していたと、父親であることを否定した。
ジャックを出産したフローラはまもなく、妻と死別し二人の娘を抱えていたジョン・ロンドンと結婚した。ジャックの出生時のファーストネームはジョンだったが、義理の父親と同じになるため、ジャックと改名された。
義父のジョン・ロンドンは仕事を転々とし、やがて一家でサンフランシスコからオークランドに移って食料品店をはじめた。それなりに繁盛していたらしい。妻のフローラの勧めで共同経営者をつのって業務を拡大し新規出店したところ、その共同経営者が店舗や商品を勝手に売り払って現金だけを持って遁走したことにより破産するはめになった。
一家はアラメダ、サンマテオ、リバモアと、カリフォルニア州内を転々とし、一八八一年、サンフランシスコ郊外の農場に居をかまえた。
生活が多少安定してくると、ジャックは読書に熱中するようになり、これは生涯続いた。
やがて、一家は農場をやめてオークランドに転居した。そこで、公立図書館という、無料で本が借りられる、本好きには天国のような施設の存在を知ったことから、ジャックの読書熱にも拍車がかかった。
義父のジョンは堅実な農民タイプで、実直に仕事をこなし、地に足をつけた生活を送る性格だったが、チェーニイの影響で占星術にこっていた実母のフローラは、生活が安定するときまってそれに物足りなさを感じるような人だった。一攫千金をねらって馬の飼育や養鶏などの事業に夫を駆りだしては失敗し、一家は事業運営と破産、転居を繰り返しながら貧困の底に沈んでいく。
ジャックは父親が失業した十一歳の頃から、新聞配達をしたり、氷屋の配達やボウリング場のピンを立てる仕事などをやって家計を助けた。
冒険物語を読むことで、現実を逃避することができた。
そして、サンフランシスコ湾に面したオークランドの岸辺には捕鯨船や牡蠣(かき)の密漁船、そうした密漁の監視船、商業や交易のためのさまざまな帆船や大型の平底船などが入り混じって碇泊していた。
冒険物語を実現してくれる海がそこにあった。
ジャックはヨットクラブの周辺をうろついては雑用を引き受けて小遣い稼ぎをしたり、小さな舟の操船、とくに帆の扱い方などを習ったりした。
十三歳で公立学校を卒業する。
彼は答辞を読むことになっていたが、卒業式に着ていけるような服を持っていなかったので欠席した。進学は断念した。
一年ほどは半端仕事で小銭を稼ぎ、ためたお金で小さなボロ舟を手に入れてサンフランシスコ湾内で自己満足の冒険航海を楽しんでいたりもしたが、父親のジョンが列車にはねられて重傷を負ったことから、定職を求めて缶詰工場に勤めた。朝から晩まで長時間、低賃金で働いた。
このころ、サンフランシスコ湾では牡蠣(かき)泥棒が横行していた。夜の闇にまぎれて養殖されている牡蠣(かき)を盗み、市場で売りさばくのだ。自分の船さえ持っていれば一晩で大金を稼げると聞いたジャックは、子供の頃の乳母で、およそ家庭的とはいえない母親の代わりに、ジャックを実の子供のように育ててくれた黒人女性から金を借り、牡蠣(かき)の密猟者の一人から小さな帆船を譲り受けた。
最初の略奪で、缶詰工場での三カ月分の報酬を一晩で稼ぐことができた。
それからの一年ほどは密漁と酒と喧嘩の日々が続く。船を買ったときの借金もすべて返済し、家族の生活も支えた。
が、儲けがあっても酒に消えていき、喧嘩で死にかけたり、密漁仲間とのいざこざで自分の船を沈められたりもした。アーヴィング・ストーンによるジャック・ロンドンの伝記『馬に乗った水夫 A Sailor on Horseback』によれば、「あいつは一年後には生きちゃいないな」と仲間に言われるほど、すさんだ生活を送っていた。
そうした生活を続ける一方で、満たされない心を埋めるようにまた本を読むようになった。キップリングやメルヴィル、バーナード・ショーなどである。
そんなとき、酔っぱらって桟橋から海に落ち、岸から遠くへ流され、死を覚悟したものの、なんとか陸に泳ぎつくという体験もしている。
やがて、盗んだ牡蠣(かき)を市場に持っていく途中で州警察の取り締まりに会い、密漁なんかやめて逆に密漁の監視をやらないかという勧誘を受けた。捕らえた違反者が支払う罰金の半額を報酬として受けとれるという条件だった。
犯罪者の心理や手口や行動については、犯罪者以上によく知る者はいないというわけだ。そこで、密漁から密漁の監視へと百八十度の方向転換をすることになった。
ジャック・ロンドンは今度は密猟監視官代理として数多くの現場に踏みこみ、相手と命がけの戦いをし、ずるがしこい人間や高潔で誠実な人間など、さまざまな人間同士の本音のぶつかりあいを体験することになる。
そうした生活が一年ほど続き、彼はさらに大きな世界を見てみたいと思うようになり、北太平洋を航海する漁船に乗り組むことにした。
一八九三年、アザラシ漁に出るソフィー・サザランド号で北太平洋を半年ほどの長期にわたり航海した。このとき日本の小笠原諸島や横浜にも上陸し、北海道沖で台風に見舞われている。
その航海から戻ってからまもなく、『日本沖で遭遇した台風の話』を書き、サンフランシスコの地方新聞、コール紙(さまざまな吸収・合併を経て、現在はサンフランシスコ・エグザミナー)のエッセイ・コンテストに応募し、一等に入選した。十七歳のときである。ちなみに、このコンテストの二等と三等は名門スタンフォード大とカリフォルニア大バークレー校の学生で、ジャックは公立学校で日本の中学二年に相当する八年生までの教育しか受けていなかった。
賞金は二十五ドル。
これが、それから十年後に大ベストセラー『野生の呼び声』を発表して当代随一の人気作家となるジャック・ロンドンの、活字になってお金をかせいだ最初の文章となる。

とはいえ、エッセイ一篇で作家になれるはずもない。
当時はひどい不景気で仕事も少なくて、発電所での石炭運びの仕事にやっとありついたが、自分が採用されたためにそれまでその仕事をしていた者が解雇され、家族をかかえた一人が自殺したことから、その仕事もやめて、失業者のワシントンへのデモ行進に参加したりもしている。
十九歳になった年、ジョン・ロンドンの娘、つまり血のつながっていない義理の姉の援助で高校に入学するが、なかなか学校生活になじめずに中退する。また一念発起して勉強し、カリフォルニア州立大バークレー校に入学するものの、生活苦もあって一学期で退学といったことを繰り返す。
クリーニング屋で働く一方で、作家になろうと短編を書いては雑誌に送ったりもした。ことごとく没だった。

このころ、アラスカのクロンダイクで金鉱脈が発見され、ゴールドラッシュが起きる。
ジャックは義姉の夫とともにアラスカへと向かう。旅費は義姉が自宅を抵当に入れて作ってくれた。が、アラスカ・クロンダイクでは壊血病にかかり二カ月足らずで舞い戻るはめになった。
金の採掘には失敗した。
とはいえ、アラスカの大地と自然という、作家ジャック・ロンドンの誕生へとつながる文学の金鉱脈ともいうべきものを探り当てて帰ってきたのだった。


アラスカから戻ってきたジャックはクリーニング屋や窓ふきなどで生活費を稼ぎながら、作家になるべく短編を書いては雑誌に送り続けた。相変わらず没続きだったが、アラスカに材をとった短編がぽつぽつと採用されて雑誌に掲載されるようになり、アラスカ物の短編を集めた最初の短編集『狼の息子』が一九〇〇年四月に出版されて好評価を得た。二十四歳のときだ。
その二年後に最初の長編『雪原の娘』、その翌年に『野生の呼び声』やルポルタージュ『どん底の人々』を出版。さらに翌年には骨太の海洋冒険小説『海の狼』を出版し、あれよあれよという間に(二十代後半で)当代随一のベストセラー作家になっていく。


ジャック・ロンドンが帆船スナーク号を建造して世界一周(結果的には南太平洋周航)に出かけるのは一九〇七年、三十一歳のときである。その前年に『白い牙』を書き上げており、航海後に出版された自伝的な『マーティン・イーデン』は執筆中だったが、ある意味、その時点において、ジャック・ロンドンの代表作ともいえる作品群はほぼ書き終えていた。
オーストラリアでスナーク号を売った彼は、病気が癒(い)えると、妻のチャーミアンとナカタを伴って南米に旅行したりして翌年の七月に米国に帰国した。
それからの彼は、出版社に前借りしていた莫大な借金を返すため、原稿を書きまくることになる。
あいかわらずの人気で、世界を見渡してみても当時の作家としてはトップクラスの印税を稼いでいた。しかし貧しい少年時代の反動か、社会主義に肩入れする一方、自宅で盛大なパーティーを開いたり、ウルフ・ハウスと呼ばれる二十六部屋の大豪邸を建てるなど、金遣いもけた違いで、手元にお金はほとんど残らなかったと言われている。ウルフ・ハウスという名の豪邸も竣工はしたものの、ジャックとチャーミアンが実際に移り住む前に原因不明の火事で焼失している。
スナーク号の航海後も、ジャック・ロンドンの書く作品はよく売れたが、それに反比例するように、作品の質は落ちていく。創作力が枯渇し書きたいテーマがなくなっても、借金を抱えた作家は書き続けなければならない。書きさえすれば「名前」で本は売れていく。
というわけで、若い作家志望者から短編のプロットを買い上げて作品に仕上げて自作として発表したりもしている。
後年にアメリカの作家として初めてノーベル文学賞を受賞することになる若き二十五歳のシンクレア・スミスもそうした作家志望者の一人で、合計二十七本の短編のアイディアをジャックに売ることに成功している。当時、無名で困窮していたシンクレア・スミスの方からプロットを買ってくれるよう依頼する手紙を書き、才能あふれる未来の大作家とイマジネーションが枯渇した現代の大作家の利害が一致したわけだった。

「シンクレア・ルイス様 提供したいプロットは他にまだあるかい?」という書き出しで、シンクレア・ルイスが提供した「庭の恐怖 The Terror of Garden」(に基づくジャックの短編)がサタデー・イブニング・ポスト紙に掲載される旨を伝えている。

一九一六年一一月、ジャック・ロンドンはカリフォルニアのグレン・エレンにある自分の農場で死亡した。四十歳だった。
死亡診断書には尿毒症と記載された。看取った医者の証言によれば、モルヒネを大量摂取した自殺の可能性も示唆されている。

本書については、読みやすさを考慮し、長い段落には適宜改行を入れた。
また、必要に応じて図を挿入し、帆船での航海を理解するために必要な最小限の訳注(*)をつけてある。
原著に掲載されている白黒写真は紙数の都合等で割愛したが、出版社のウェブサイトの「立ち読みコーナー」ですべての写真を閲覧可能。


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