人生の書 - 考える力(3) ジェームズ・アレン著

人は自分のほしいものを引きつけるのではなく、自分自身が引きつけられているのである。思いつきや妄想、野心は一歩ごとに外的環境に妨げられたりもするが、心の奥に秘めた考えや欲望は十分に食料を与えられて増殖し、人を汚れさせたり清浄にしたりしていく。「われわれに結果をもたらす神の手」はわれわれ自身の内にあり、まさに自分自身で作り出しているのである。人は自分自身にのみ束縛される。思考と行動は運命の看守なのだ――その人の根底にあって監禁もすれば、自由の天使となって高貴な存在として開放したりもする。人は自分が願望し懇願するものを得るのではなく、正当に得られるものを得るのだ。願望や懇願は、自分自身の思考や行動と調和したときにのみ満たされ報いられるのである。

この真実に照らしてみれば、「自分を取り巻く状況と闘う」というのは何を意味するのか? それは、自分の心の中で常にその原因を養い保護しているくせに、原因の見えない結果に対して常にいらだっている、ということなのだ。その原因は、自覚された悪徳や無意識の弱さの形をとる場合もあるが、何であれ、それを心中に包含している人の努力を断固として妨害し、声高に救済を求めて叫ぶのだ。

人は自分を取り巻く状況を改善しようと願うが、自分自身を向上させようとはしない。だから内なる自分自身に拘束されたままなのだ。自分に与えられた苦難に尻ごみしない人は、心に定めた目標を必ず実現させる。これは天国においても地上においても真実である。金もうけだけが唯一の目的だという人でも、その目的を実現するには個人的に大きな犠牲を払うことを覚悟しなければならない。どうすれば、強固で安定した人生を実現できるのか?

ここに悲惨なほど貧しい者がいる。自分を取り巻く状況を非常に杞憂し、安寧を得るには改善が必要である。だが、彼は常に仕事を人に押しつけ、安月給だから雇用主を欺くのも当然だと思いこんでいる。こんな人は、真の繁栄の基礎となっている原則の最もシンプルな基本すら理解していないことになる。自分の不幸な境遇から抜け出せないだけでなく、怠惰やごまかし、卑劣な考えに安住し、それを行動に移すことで、自分自身にさらに不幸を引きよせているのだ。

ここに暴飲暴食の結果として、苦しくて頑固な病気にかかった金持ちがいる。彼は病気を直すためならばくだいな金も喜んで払うつもりだが、自分の食欲を犠牲にするつもりはない。豪華で自然に反した食事が好きだという欲望に身をゆだねる一方、健康も保ちたいと思っている。そんな人が健康でいられるはずがない。健康な生活で第一となる原則を、まだ学んでいないからだ。

ここに正規の賃金を支払わずに済ませられる歪んだ策を弄している雇用主がいる。もっともうけようとして、雇っている人々の給料を減らしたりする。ところが、そういう男が繁栄することはありえない。名声と資産の両方で破産したとしても、そういう人は、自分自身がそうした状況の唯一の張本人であるとも知らず、自分を取り巻く状況のせいにするのだ。

ここで三つの例を紹介したのは、人は自分を取り巻く状況の原因を(ほとんどの場合、無意識に)自分で作りだしているという真実を理解してもらうためである。よい結果を得たいと思っている一方で、その結果と相容れない考えや欲望に身をゆだねることで、その結果が達成されるのをたえず自分で邪魔しているわけだ。こういう状況はいたるところにあり、ほぼ無限に変化しうるのだが、読者が自分の心と生活において考える力の持つ法則による行動を追跡しようと思えばできるように、それが必然というわけではない。単なる外的な事実は推論する根拠にもなりえない。

人生の書 ― 考える力(1) ジェームズ・アレン著

考える力(1)
 “AS A MAN THINKETH”

ジェームズ・アレン
『人生の書』刊行委員会編訳

ジェームズ・アレン(1864年~1912年) イギリスの作家。『「原因」と「結果」の法則』などの著作がある。

トルストイに感化された彼は、家族をともなって地方都市に隠棲し、著作に専念した。その結果、いわゆる自己啓発書の先駆けともいえる一連の作品群が生み出された。

 現代の自己啓発書の隆盛はアレンに多くを負っているが、アレンの著作と称する邦訳作品には、アレン自身の考えというよりは、論者が自分の主張の裏づけとして都合よく利用するだけだったり、原文から離れて独自の解釈を擬似宗教的に展開したものも多く、必ずしもアレン自身の著作自体が理解されているとはいいがたい状況にある。

そこで、ジェームズ・アレンの著作をできるだけ原作に忠実に訳出することで、作家への理解を深める一助になればと考えて、ここに『人生の書』として発表することにした。

なお、バルザックの『人間喜劇』が彼の作品群の総称であるように、『人生の書』はジェームズ・アレンの一連の著作の総称として、私どもが命名した。

 私どもはジェームズ・アレンの著作をできるだけ忠実に再現することに努力した。独自の解釈や論を主張する気はさらさらない。気に入るも入らないも、まったく読み手の自由である。何かのきっかけで目にとまり、運良く目を通してもらえれば、そうして、その人なりに「ふうん、こういう考えもあるのね」とでも納得してもらえれば、それで十分である。

人をその人たらしめるのは、その人の心であり、
人間とはその人の心そのものである
その人の考え方しだいで
喜びにあふれることもあれば、つらい状況に陥ることもある――
人の思いは目に見えないが、いずれ現実のものとなる。すなわち
人をとりまく環境はその人の真の姿を写す鏡なのだ。

著者のまえがき

本書は瞑想と体験の結果として生まれたものであり、世の中にあふれている思考の力についてあますところなく解説しようとするものではない。解説というよりは提案であり、本書の目的は、次の真実を発見し認識してもらうことにある。

人をその人たらしめるのは、その人自身である

その人が何を選択し何を望んでいるのかで、その人がどういう人であるかが決定される。人の内なる性格やとりまく環境を織り上げるのはその人の心であり、無知や苦痛にさいなまされるのも、喜びや幸福感に包まれるのも、その人の心によるのである。

――ジェームズ・アレン
英国イルフラクーム、
ブロードパーク・アベニューにて

考え方と人格

「その人が心の中で何を考えているかで、その人がどういう人かが決まる」という箴言は、人間という存在の全体を示しているのみならず、その人の人生をとりまく条件や環境すべてに当てはまる。その人が何を考えているかは、まさにその人自身を示しており、その人の思考の総体がその人の人格となっているのである。

植物は種子から芽が出るし、種子がなければ発芽できないように、人のあらゆる行為は目に見えない心という種子から芽を出したものであり、それがなければそういう行為は生じてこない。このことは、意図した行為と同様に、「自然」で「自然発生的」と呼ばれる行為にも等しく当てはまる。

人の行為は思考が花開いたものであり、喜びや苦しみはその果実である。このように、甘美な果実も苦い果実も、自分自身が耕し集めたものである。

心の中で何を考えているかで、どういう人間かが決まる。どういう人かは、
何を考えているかに左右され、それによって形づくられる。心中に
邪悪な考えを抱いていれば、その人には苦痛がついてまわる。
牛車で牛の背後にたえず迫っている車輪のように……
……人が純真な
思いを持ち続ければ、喜びがおとずれる
自分自身の影のように――かならずや

人は法則によって成長し、策略によって創造されるのではない。目に見える世界や物質の場合と同様に、原因と結果は思考という目に見えない領域でも絶対のものであり、それから逸脱することはない。高貴で神のような人格は善意や偶然の産物ではなく、絶えず正しい考え方を持ち続けようと努力してきたことの帰結であり、ずっと神のような考えを抱いてきたことの結果である。下劣で堕落した人格は、同様にこの作用により、絶えずいやしい考えを抱いてきた結果なのである。

人は自分自身によって作られもするし、そこなわれもする。思考という武器は、自分自身を破滅させることもあるし、自分のために喜びや強さ、平安というすばらしい住まいを建てる道具ともなる。正しい考えを選択し正しく適用することで、人は聖なる完全性にまで昇華していく。間違った考えや誤った思考に陥れば、自己を獣のレベルにまでおとしめることにもなる。この二つの両極端の間にすべての人格が存在する。人は自分自身の創造主であり主人である。

この時代になって再び光が当たられている魂に関連する美しい真実すべてのうちで、人は自分の思考の主人であり、人格をつくりあげ、条件や環境、運命を創出し形成するものである──この聖なる約束と信頼ほど、喜ばしくも実り豊かなものはない。

力、知性、愛ある存在として、自分の心の主人として、人はあらゆる状況に対する鍵を持ち、自分自身のうちに自己が望むものを思い描くことにより、それを転換させ再生させていくのである。

人は、最悪の見捨てられた状態にあっても、つねに自分自身の主人であり、自分の弱さや劣化は自分が自分の「家庭」を誤って支配した愚かな主人だからである。自己をとりまく条件について内省し、自分という存在を確立させている法則を熱心にさぐりはじめるとき、人は自分自身の賢明な主人となり、知性によりエネルギーを発揮し、自分の心を実りある問題に向けようとする。これこそ自覚した主人であり、人は自分自身のうちに思考の法則を発見することによってのみ、そうなることができる。この発見はまったく勤勉と自己分析、経験の問題である

金やダイヤモンドは熱心に探して採掘することによってのみ得られる。人は、自分の魂という鉱山を深く掘り下げていくことで、自分という存在に関連するすべての真実を見いだすことができる。自分の心の動きを観察し、支配し、変革し、それが自分や他の人々、自分の人生やそれをとりまく状況に与える影響を追跡し、理解力や知恵、力を持つ存在である自分自身を知る手段として、がまん強く実践し探求しつづけて原因と結果を関連づけ、さらに日常生活で生じるささいなことに対しても自分の経験すべてを活用していくことで、自分という人格を形成し、人生の道筋をつけ、運命を作りあげるのはその人自身であることを証明できる。この方向においてのみ「求める者は見いだし、扉はそれをたたく者に開かれる」という法則が絶対となる。忍耐、実践、絶え間ない探求によってのみ、人は知恵という神殿の扉をくぐることができるのである。